個性は自信の有無や自己肯定感のような文脈で語られることが多い。
が、しかし、個性は知識の多寡や人との比較などではなく、体験から創られる。体験には唯一性、オリジナリティがあるからだ。
ここで、体験の定義を調べてみる。
①自分が実際に身をもって経験すること。また、その経験。
②主観と客観とに分けられる以前の、個人の主観の中に直接にみられる生き生きした意識過程や意識内容。
とある。
自分には個性がない、という人はここに問題がある。個性において重要なのは、①よりも②の意味の体験である。
多くの大人には耳の痛い話かもしれないが、あなたは哲学的ゾンビになっていないだろうか。
かくいう私は、会社員時代の数年間を思い返すと概ね細かい記憶がなかったりする。営業活動の中でクレーム対応や重大な謝罪案件など、精神MPを削られるような重要局面もあったので、場面場面で覚えていることはある。
ただ、毎日会社と自宅の往復をして仕事をしていたという大まかな記憶のみ。通勤中の景色やその他に付随した感情や思念的な記憶はほとんど覚えていない。
何の気なしに繰り返す日常の行動で意識が省エネモードになって、毎日を“体験ではなく消化する”ようになってしまうのだ。
哲学的ゾンビとは、体は習慣通りの日常を送っているが、内面的には何も感じていない状態。大人になるにつれて、単なる記憶の薄れではなく、時の速さを実感する時、哲学的ゾンビを疑ってもいいかもしれない。
生きていることは体験していることとも言い換えられる。
漫然とただただ毎日を消化し、いつしか哲学的ゾンビになり果て、体験にフォーカスすることを無意識にしなくなってしまう。日常生活でさえ、いや日常だからこそ、その体験をしっかりと味わうことができる生き方を身につけること、それが個性の発揮に繋がる。
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私自身を含めて、たいていの人は「自分は世界を知っている」と思っているのではないだろうか。
それは、自分の身の回りを知っているもので囲み、自分が知っているものしか意識せずに見ているからに他ならない。するとどうなるか、人生の早送りボタンがポチっと押されて哲学的ゾンビが出来上がる。
私たちは「経験したことがあること」「知っていること」には意識を向けることができない。知っていることに余計に意識を集中させることは無駄だからやらないように出来ている。
つい最近、ファクトフルネスが流行った理由はここにあると考える。私もその一人であるが、自分が如何に歪んで世界を見ているか。知っていると思っていたことも実は思い込みや誤りで、その知っていることの認知の外側をうまく突かれた。
同じようにハッとした人が多かったということだろう。知らないということを知る体験をすること。ソクラテスが言った”無知の知”であるが、これが自己理解を深める上で非常に重要なポイントだといえる。
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しつこいようだが、改めて体験の定義を書いておく。
①自分が実際に身をもって経験すること。また、その経験。
②主観と客観とに分けられる以前の、個人の主観の中に直接にみられる生き生きした意識過程や意識内容。
人は体験していないけど、言葉だけで知っているものが実はたくさんある。
それは、インターネットが普及して、文字情報のみならず、音、絵で臨場感のある映像情報が知識として簡単に手に入る時代なので、分かった、知れた気になってしまうから。どれが本当の意味での体験で得た知識なのかがとても見分けづらい。
理解は知識の比較ではなく、体験からでしか得られない。それが自己理解につながる。
・日常で行っている行動や見聞きしている事柄を自分は本当に知っているだろうか?
・形、色、質感、それに触れた時の肌触り、感情、意識に集中していたか?
・それをありありと思い出せるか?
いささか面倒ではあるが、これらの自身への問いは知らないことを知るきっかけになるのでぜひ実践してみてほしい。言葉では知っているけど、定義どおりの体験をしていないことがほとんどだったりする。
知らないことを知るために簡単にできることがある。当たり前だが、未知のもの、未体験のものに一歩足を踏み込んでみることだ。
そんなことをしたって自分の体験はありふれた平凡なもので価値があるとは思えない。そう考える人がいるかもしれないが、実はそうではない。あなたが何か行動を起こす時、心の動く時は誰かの体験談が後押しになったはずだ。
ハッとしたエピソードがあるので、最後に紹介したい。以前、何かの番組でダウンタウンの松本人志氏が言っていた発言。
野球を知らない人にバッドとグローブとボールを渡したらどういう使い方をするだろう、野球とは全く違った別の遊び方が生まれると思う。
自分の身の回りを知っているもので囲み、自分が知っているものしか意識せずに見ていると、当たり前のルールやシステムにただただ乗っかるだけになってしまう。それが固定観念となり、意識の省エネ化が始まり、 体験から消化へ、そして、無個性への悩みに繋がる。
体験には価値がある。個性を育むためには、体験の言葉の意味を再認識することから始めるべきではないだろうか。