完璧主義者の欠陥はつまるところ自己愛性非行動主義

完璧主義者の欠陥はつまるところ自己愛性非行動主義

突然だが、私は元来『完璧主義』の気がある。

というか、程度の差こそあれクリエイターには兎角この傾向を持つ者が多い。
まあ、この点に関してはなんとなく察して頂けると思うし、特に解説も不要だろう。

けれど、一応その源泉を掘り起こしてみる。

正攻法(?)としてクリエイターになる場合、我々は学業として美術を学ぶ。それは基本的に、美術大学や美術系専門学校に入学して、教育課程を修了させるということになるのだが、そこで教えられること──いや、それ以前の受験勉強段階から、学習の大部分が『自己表現』だったりする。

もちろん入学してしまえば、中にはマーケティングや工学に類する講義もあるのだが、そういった分野は概してEX枠といった感じで(専門学科は別として)基礎科目からは切り離された扱いになっている。

なのでやはりクリエイターを目指す学徒が学ぶことといったら、『自己表現』が中心となる。

そうなってくると、受験競争も含め、いかに独自の“こだわり”を持って表現できるかが、競争優位に働く。その環境下において『完璧主義』とはもはや必要最小のマインドセットであり、結果論で言っても受験競争勝者であれば、大多数に実装されているマジョリティ的特質となる。



『完璧主義』が内包する極めて甚大な欠陥

完璧主義者と、これまであまり関わりをもって来なかった方々にとって、この言葉からは“芸術家肌”とか“職人気質”とか“ハイセンス”とか、あるいは“とことん追求する人”ないし“負けず嫌いな人”みたいな、ある種超人的なイメージを想起するのではないかと思う。

間違ってはいないし確にそういった素質がある一方で、この『完璧主義』という特質は、正しく理解して使いこなせなければ、一転して極めて甚大な欠陥となる。

例えば、完璧主義者を自負する私はかつて、部屋やデスクまわりの片付けが大の苦手だった。

しかしそれは散らかった部屋に無頓着であったわけではないし、むしろ美しく整理整頓された空間の方が居心地良く、シンプルで洗練された暮らしを好む。それなのに何故なかなか片付かないのかというと、それは片付け始めないからだ。

私は完璧に整頓された空間を好むが故に、片付けに手をつけることが出来ないでいた。

何を言っているのかイマイチわからないと思うが、要は一旦始めてしまうと気が済むまで止めることができないこと、その一点に懸念を置いていた。過去の経験上、片付け始めると大抵部屋中をひっくり返し始める。なんなら部屋のレイアウトすら疑い始め、午前中を想定していた作業が翌朝までかかる。

故に私にとって片付けとは、相当の覚悟を要する行為となった。

そもそも散らからないように生活せよとの意見は、一旦心に留めて欲しい。混沌に身を委ねるのもクリエイティブの過程では必要なのだ。
ここで重要なのは“完璧にできないならやらない心理”もまた『完璧主義』が内包する性質ということだ。

『完璧主義』という特質は、正しく理解して使いこなせなければ、一転して極めて甚大な欠点となる。

上述したこの一文の真意は、『完璧主義』をうまく使いこなせていない人は総じて“完璧にできないならやらない心理”が極めて優位的に働いてしまっているということになる。

覆しがたい本能の抑制を意図的に解放する

完璧主義者は、万全を期したい。一度始めたら中途半端は許せない。

この心理をアクティブに動かせれば、極めて有能な実務者になれる。
しかし、これらはあくまで心理であり行動指針ではない。すなわち御し方を間違えると「従前でなければ動かない」「完璧に遂行できる確証がないならやらない」と、有能とはまるで真逆の非行動的論者になってしまう。

この欠点を自覚してからこの方、『完璧主義』の全く別の言い換えを模索している。なにせ『完璧主義』という語感では少々格好が良すぎる。

『完璧主義』という言葉は、行動しないことや先延ばしの言い訳を、実に格好良く表現してくれる。“完璧”に含まれるポジティブな意味合いがそうさせているのだと思う。しかし実態はどうだろう。

「失敗する可能性に慄いて足がすくんでいるだけではないか」
「重い腰を上げる理由付けを他者や環境に依存しているだけではないか」
「完璧に行えない無様を晒したくないなんていう見栄っ張りではないか」

私は自分自身に、折々このような質問を投げかけるようにしている。個人的には、少々厳しめな言葉──他人にはあまり進んで言いたくない言葉だが、厳しい言葉をかけるだけの理由がある。

まず、失敗する可能性に足がすくむのは普通のことだ。
人の心理は構造的に、利益期待よりも損失回避が優位に働くようにできている。それに、誰だって自分の無様を人に見られたくはない。ナルシシストでなくたって、他人には少しでも有能に見られたい。できることなら“失敗などしない完璧な自分”を演出したい。

こういうのは、心理というよりある意味、本能といったような人間のより核心に近い原理で、消し難いものなのだ。

それになにより厄介なのは、失敗を回避しながら大きな成功はなくとも損をしない生き方というものを頭ごなしに否定できない。

むしろ正しいとさえ思うほど、世の中にも私の親戚友人知人にもそれで幸せを送っている人々が存在する。そんな人たちを否定できないように、そのような本能を丸ごと悪と断じ切ることもできない。

しかし私には、それを是とすることができない。

未知に飛び込み、可能性を広げることこそ、クリエイティブを携える者の使命であり、それを実行できないのならそもそも、この立ち位置に居続ける資格を失う。

だからこそ厳しい言葉を自身に投げかけ続け、覆しがたい本能の抑制を意図的に解放する必要がある。それらは意図して取り払わなければ、デフォルトのプログラムとして人間の中で優位に働き続けてしまう。

今自分が行動しあぐねていること。

もし同じことを他人に相談されたら「とにかくやってみたら」と言うのではないか。もしそうであれば、理性的には利益期待の方が高いと分かっているのだ。であればきっと損失回避の言い訳に、『完璧主義』を利用している。

「完璧に行ってはいけない」という制約

アメリカに本社を置く世界最大のネットワーキング企業シスコシステムズには、開発時において『Ver0.8の原則』というものがあるらしい。

これは、時間をかけて完成品(Ver1.0)を制作するのではなく、迅速に未完成品(Ver0.8)を制作するという社内ルールなのだが、シスコシステムズの意図(恐らくPDCAサイクル絡みの社内文化)はどうあれ、この原則は極めてシステム的に『完璧主義』の欠陥を解決する可能性を秘めている。

完璧主義者は、完璧を求める。みなまで言わずとも、そういった強い──強迫的とも言っていい心理が働いている。そこにつけて「完璧に行ってはいけない」という制約を課すのだ。

言葉で聞くと何とも笑えるが、完璧主義者から完璧を奪うとどうなるか。

“やらない言い訳ができなくなる。”

しごく単純な話だが、完璧主義者から完璧を奪うと、そこには本来の極めて有能な実務者たり得る性質が残る。アクティブな完璧主義者ほど実務者として、創造的知性の保持者として力強い存在はない。

自由に見えるものは消え失せるが、制約は創造性を引き寄せる

「生くる」講談社

執行草舟氏の著書にある私の好きな言葉で上記のようなものがあるが、まさにその正しさを痛感する。

さらに、完璧に行わないメリットは他にもある。

以下は、とあるデザイナーの言葉で、恐らく世にいる多くのクリエイターの言語化できていないプロセスを明確に言葉にしてくれている。私自身この文を見てハッとした。

もし、アイデアを余りに早くから固定してしまうと、そのアイデアに恋に落ちてしまうことになります。あまりに早く洗練させてしまうと、それにこだわってしまい、より良いものを探究し続けることが難しくなります。

「ビジネスモデルジェネレーション」翔泳社

“完璧”に行わないこと、“完璧”でないことには、理由がありメリットがある。完璧主義者には分かりようがなかった事実だったかと思う。

しかし、あえて完璧に行わないという認知を広げてみると、我々の行動を抑制、阻害していた思考の一部が解けていく様を感じられる。

『完璧主義』という特質は、正しく理解して使いこなせなければ、一転して極めて甚大な欠点となる。

が、正しく理解して使いこなしさえすれば、『完璧主義』とは強い責任感と徹底した精度を誇る、ビジネスパーソン必携の特質となる。

私もそのことをよくよく忘れぬよう、うまく付き合っていきたい。

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