成果、業績、報酬といった結果を得るために現代人は多くの犠牲を払ってきた。
嫌な仕事、キツイ仕事でも結果を得るためには厭わない。時にはそれが病に繋がるほど、死に至るほど極度のストレスを伴っても、報酬を得るためには仕方がない。実際に多くの命や人生が犠牲になった。しかし資本主義経済下では、企業活動にとって成長に必要なコストと割り切られてきた。
…しかし果たして本当にそうなのだろうか?
求める結果、企業の成長や個人の報酬を得るためには、そういったプロセス-心の磨耗や人的犠牲-は無視して構わないものなのだろうか。それでこの先もずっと成長し続けていけるのだろうか。
そんな疑問を呈し、結果効率主義の根源たる西洋思想を離れ、唯物論や朱子学、禅仏教などの東洋思想に答えを求め始めたのは、シリコンバレーの、奇しくも西洋の世界的ビジネスリーダーたちだった。
之を知る者は、之を好む者に如かず。
之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。
これは朱子学、儒教を学ぶための経書の一つ「論語」にある一節だ。
論語の中でも比較的に見たままの分かりやすい言葉だが、一応意訳しておくと「知識を持つ人は、それを好きな人には決して及ばない。更に、ただそれを好きな人でも、それを楽しんでいる人には及ばない。」となる。
成果・業績・効率が重んじられる結果至上主義、西洋由来の現代文明において、業務遂行にとって最も重要な能力は「知識やスキル」と考えられている。もちろん、ある側面では間違っていない。
しかし東洋思想では、「知識やスキル」の上に「好きでいること」そのさらに上に「楽しんでいること」が重要視されているのだ。
結果を得るために我慢を強いられてきた現代人にとって、この発想はにわかに受け入れがたいかもしれない。「仕事」と「楽しむ」を結びつけることに抵抗を覚える人も多いと思う。むしろ「仕事は辛いもの」であり「仕事を楽しむなんてけしからん」といった思考を深く刻み込んでしまっている人にとっては、悪逆的な発想に思えるだろう。
だが今まさにこの時代、歴史的転換期にあたるこの瞬間、これまで数百年の発展を築いた西洋思想への偏重・盲信からの脱却が求められている。
先進文明の発展を支えた西洋思想の限界
人類の暮らしを豊かにした偉大な発明の一つは「客観的視点」であり、それを生んだ西洋文明の功績は計り知れない。
デカルト、ニュートン、その他にも西洋で輝いた数学者や哲学者、科学者たちによって、人類は客観性を学んだ。客観性とはつまりデータでありエビデンスだ。ガリレオの地動説を神の一声で封殺したように、神や宗教に支配され感情で文明を営んでいた人類にとって、これがどれほどのパラダイムシフトだったかは、容易く想像してもらえると思う。
近代文明のトレードマークは西洋のそういった思想にあり、時の明治政府はじめ世界中の多くの国が、この思想を取り入れ国家の近代化を果たしたことも、多くの人の知るところだろう。
より平等な政治、より合理的な経済、人間的な生活をより多くの人類が手に入れた。
18世紀後期には、水力や蒸気機関によって工場が機械化し大量の製品が供給可能となり、20世紀には電力やそれを用いた工学技術、情報技術の発展と矢継ぎ早に効率化が成された。
西洋思想の築いた、合理的なモノゴトの読み解き方や効率を追求するマインドセットは、モノやインフラを行き渡らせるために、極めて有効な働きを示したと言える。より効率的に大量の物質を市場に投下することによって、企業は恒常的な成長を手に入れ、消費者もまた豊かさを享受できた。
しかし一方で、効率的な生産や市場競争に打ち勝つため、合理的な成功法則を遂行するため、労働者の多くは己を殺し、機械のような働きを強いられるようになった。
数十年前まで、高度成長にあった経済環境下では、それでもよかったのかもしれない。どれだけ辛く厳しい労働であっても、我慢して努力し続けていれば報酬は増え、生活は豊かになっていった。自家用車を買えるようになる。自宅に電話を引ける。テレビを買える。冷蔵庫を買える。エアコンを買える。報酬さえもらえれば、生活をわかりやすく豊かに変えられる、価値あるモノが手近に溢れるほどあったのだ。
でも今はどうだろう。そのどれもが、当時とは比較にならないほど価値を失ってはいないだろうか。
“豊かさ”は時を追うごとに複雑化している。もう昔のようにモノを得れば簡単に感じられることではなくなっている。機械のように己を殺して働いても、“豊かさ”という結果に直結しない。そんな環境下で、我慢を強いられて働くことと得られる報酬は等価と言えるだろうか。
このような思考回路は、特に先進国の若年世代で多く形成されてきている。経済成長期のパラダイムで生きる世代にとっては理解しがたい考え方かもしれない。軟弱だと揶揄したくなる気持ちにもなるだろう。
しかし過去と現在では、同じ“辛い思い”をした対価に雲泥の差があることを理解しなければならない。そしてそのことに、世界のビジネスリーダーたちはいち早く気づき、新たなパラダイムを受け入れる準備をしている。
東洋思想は“内観”のマインドセット
西洋思想的発想では意識や関心を外へ向ける。
これは中世西洋以降の宗教観に由来する。人の営みは神によって定められているという思考から派生して、自己の外側の事象を解き明かすことに多くのエネルギーを割いている。そのため、数学や哲学、科学は西洋で大きな発展を遂げた。
西洋思想の信奉対象は、客観的データにある。それを集め観察し、仮説を立て証明する。証明されたものは法則として蓄積されていき、それをエビデンスとしてまた万物を紐解いていく。
一方、東洋思想的発想では意識や関心を内に向ける点において西洋のそれとは根本的に異なる。
西洋思想で考えられる“真理”が自己の外側にあるのに対して、東洋思想で考えられる“真理”は自己の内側にある。
例えば仏教では「人は生まれながらにして皆、仏である」という視点で修行する。どういうことかというと、人間というのは既に悟った存在であり、修行とはそれに目覚める行為、本来持っている仏性を顕現させるための行為という発想なのだ。
東洋思想では自分自身を深く見つめること「内観」が極めて重要に据えられている。
これは大きな違いだ。西洋思想では、外的な要因によって豊かさが決まるが、東洋思想では豊かさとはむしろ自己の内側にある。
現代の仏教や僧侶をイメージすると、欲を排してただひたすらに厳しい修行に耐えるような像を思い浮かべてしまうと思うが、実際はそうではない。ブッディズムの開祖であるシッダールタはそもそも修行は悟りと無関係と言っているし、東洋思想の根本は人格を鍛えることによって人は豊かになるという発想である。
朱子学ではいたるところで「自分の好きな事を追求しなさい」と言ったような教えが書かれている。報酬や名声といった外発的動機ではなく、好きなことや楽しめること、ワクワクすることなど内発的動機による原動力を見極めることが豊かに暮らすことだと説いているのだ。
只管打坐(しかんたざ)-ただひたすらに座禅を組む-などは、むしろそれを発見するため、自己を味わいつくし内観するための効率的な方法であって、それ自体は目的ではない。
これまでの数百年、人類文明の発展を支えてきたのは間違い無く西洋思想だった。
それにより私たちの暮らしは、物質的に満たされたものになっている。しかし一方で、人格的にはどうだろう。科学や技術の発達と、それに伴う物質的経済的な発展と比して、人格的な発展は、人としての豊かさは何か変化があっただろうか。
現代に生きる文明人たる私たちは恐らく、自己の外面にばかり意識を偏重し、内面を疎かにしてきたがため、極めて歪なアンバランスの上に立ってしまっている。そのためここにきて、様々な弊害に直面しているのではないかと思う。
新時代の価値観は内発的アプローチ
之を知る者は、之を好む者に如かず。
之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。
知識や技術、スキルを身につけることは大切なことだ。データを集め客観的に分析してわかることも、成し遂げられることも多い。しかし、それだけではもはや“豊かさ”は望めない。成長期を過ぎた現代で、物質的な充足を頼りに生きるのは辛い。
好む気持ち、楽しむ精神といった主観も共に磨かなければ、現代で“豊かさ”を手にすることはできない。
シリコンバレーが牽引する世界のビジネスリーダーたちは今、西洋思想に基づく客観偏重をやめ、禅や唯物論などの東洋思想から学び、人格を磨く、主観を重要視した価値観を取り入れ始めている。
そしてそれが、新世界の価値観を作るイノベーションにつながっていることを、皆さんも重々ご承知の通りだと思う。
労働者は出世や報酬といった外発的な動機だけではなかなかパフォーマンスを発揮できなくなってきている。消費者は自分を豊かにしてくれる製品やサービスを想像できなくなっている。
物質的な充足や成長はもはや頭打ちであり、そういった価値観は成熟しきってしまったと言っていい。
これからはより内発的なアプローチが私たち一人一人を豊かにしていく。
いかに楽しんで働けるか、そういったモチベーションを育てていくことが、労働者個人にとっても企業体制としても極めて肝要だ。