仕事に及ぼす筋トレの効果について

仕事に及ぼす筋トレの効果について

以前、トレーニングを始めてから起こった身の回りの習慣の変化について、書きました。そこでは主に私生活における習慣の変化をテーマに取り上げていました。

筋トレによるメリット、デメリットは様々なところで語られており、ネットで調べると多くの情報が出てくると思いますので、今回はより仕事方面にフォーカスをして、トレーニングが自分の仕事の姿勢や考え方にどのような効果、影響を与えたか。筋トレによって副次的に自身に起こった心境や心身の変化について、書いていきます。

中長期的な視座を養うことができる

短期的に何かを成し遂げようとすると必ず反作用として別の何かに犠牲やリスクといった影響がでてきます。

この世の経済活動や主義主張がトレードオフで成り立っていることは周知のとおりですが、これをダイエットやトレーニングに置き換えると、急激に体に負荷を掛けることで体重を短期的に減らすことができる一方で、当然、リバウンドや心身のストレスといったリスクが必ず伴うということ。

健康的に筋力を増やしたり、体重を落としていくためには、誤差を積み重ねることが必要で、少なくとも1週間~数か月にわたる1日1日のグラム単位の積み重ねが、長い時間で見たときに筋力の増加や脂肪の減少といった体に変化を与えることができるのです。

これらに正解などなく、どちらがいいかという議論は目的によって変わるので、その話はさておき、体を鍛錬する成功体験によって、短期ではなく長期、かつ、今だけではなく積み重ねによる未来を思考する視点は会社経営や1会社員の仕事、勉強にも通じていて、改めてこれが重要であると再認識するに至りました。

「今日の成果は今の自分の為ではなく、未来の自分へのプレゼントである。」

自分が行っている行動は今現在のリスク回避のための行動なのか、はたまた未来に繋げるための行動なのか、それを分かった上でやるのとやらないのでは、向き合う姿勢やモチベーションが大きく変わってきます。

自らを客観視できるようになる

私はもともと筋トレに大して興味なんてありませんでしたし、別にしなくていいやと思っていた派で、時にトレーニーの友人におすすめされることはありましたが、「へぇ~」といった具合に軽く聞き流すように相槌を打つだけでした。

ただ、実際にやって結果がでてみると人におすすめしたい気持ちは非常によく分かります。好きなマンガや映画を人に紹介するのと同じ感じというと分かりやすいかもしれませんが、(体の変化とともに)感情に大きな動きが生まれたことを誰かに伝えたい、この良さを共有したいという思いがそうさせるのです。

熱心な勧誘によって、宗教の勧誘のように扱われてしまう側面もありますが、求めてない人に良さをどれだけロジカルに、エモーショナルに語ったとしても外発的な動機付けと説得で他人の行動を強制することはできません。例えどれほど価値のある一次情報であっても押しつけでは避けられてしまうのです。

だからといって、なぜわかってくれないのか、こんなにいいものなのに、といった自己中心的な他者批判や他責思考になるのはいけません。

これまでの人生を振り返ると、自己中心的な他者批判や他責思考で失敗した経験が数多くあります。いずれも相手の立場や事情を考えずに一時の怒りに支配されて感情をぶつけてしまったもので、源泉には「なぜわからないのか」「わかってくれるはず」という希望的かつ一方的な思いがありました。

自分がそうであったように世の中の大多数は筋トレに興味がないし、興味がない人に妄信的におすすめするのもあまり意味がない。これらのビフォーアフターの経験を通して、より人は人、自分は自分という線引きが明確になったような気がします。

諦めることが増えた

今現在、自分の仕事をする上でのスタンスと合致している記事を見つけましたので、紹介します。東洋経済オンラインの記事です。

日本語で”諦める”は放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いと思いますが、漢和辞典で「諦」を調べると悪い意味はひとつもありません。

〔つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。まこと〕

さらに仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉です。諦の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。ところが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、望んでいることを途中でやめるという意味ばかりで使われるようになってしまいました。

中途半端な諦めではなく、物事の真相を明らかにした上で諦めたことは、堅固な屋台骨として人生を支え、心おだやかなに人生を歩く上で堅牢な杖になります。同じ諦めるなら、ただ諦めるのではなく、状況を明らかにする勇気を持ちたいものです。

東洋経済オンライン 多くの人が知らない「諦める」の本当の意味 https://toyokeizai.net/articles/-/154783

本当の意味での諦めることは、事実と向き合い、きちんと反省をし、改善すべきところを明らかにすること。ただ、これは現実を直視しなくてならないので心理的にストレスがかかります。

そこに自身の非があればなおさらで、悪いところを素直に認めることは、大人になればなるほど立場や面子を気にして難しくなってきます。そのため、これらを避けて見て見ぬふりをすることの方が楽なのは言うまでもなく、他者批判や他責思考による“中途半端な諦め”で片付けてしまう状況は現実として社会では多々起こります。

トレーニングは、このストレスに向き合うところで、実践訓練として非常に役に立ってくれているのではないかと考えています。重量などで身体的負荷がかかるのはもちろんですが、心理的なコントロールによって、身体にストレスを掛けていくことの行為自体がストレスと向き合うことに慣れさせているのではないか、ということ。

ストレスの根源は、先が読めない予測不可能性と自分の思う通りに行かないコントロール不可能性の大きく2つに分けられますが、人を介する仕事であればあるほどこの連続です。しかしながら、自分の体でさえ、トレーニングを積み重ねていけばいくほど、思った通りにいかないことを痛感するのです。

自分すらまともにうまく操縦できないのに、他人を自分が思った通りに動かすなんてそもそもできるはずがない。この気付きが重要で、その上でもう一歩前に進むには、どうしたらよいか。それは、物事の真実の姿やありさまを明らかにすること。まさに“諦める”ことなのです。

さいごに

今回、心境、心身の変化という切り口で書きましたが、筋トレによって変わったというよりは、新たな習慣によって、これまで自身の中にあった潜在的な思考、本質的な部分が顕在化した、抽象がより具体になっただけじゃないかとも思っています。

個人的に筋トレをやらない理由はないと思っていますが、一方で決して万人におすすめできることではありません。たまたま今の自分にうまく適合したというだけで、結果が出たのは、失敗にありがちな「手段の目的化」にならなかったからです。仕事も勉強も筋トレも一つの手段であり、そこには別の目的が必ずどこかに存在します。

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