動機はシンプルな方が良い。
イギリスの登山家であるジョージ・マロリーが、「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われて、「そこにエベレストがあるから(Because it’s there. )」と答えたという逸話は非常に有名だ。
「そこに山があるから」と誤訳され、哲学的な問答として語られることもあった。
常人であれば、生物が生命活動を維持することができない高度8,000m超の過酷なエベレストに挑戦しようとは考えない。世界一の山に登りたいというシンプルかつ根源的な欲求。これこそが彼を突き動かしていたことが分かる。
死の恐怖を味わうフリーダイビング競技
空気タンクなし、一息でどれだけ垂直に深く潜れるかを競うフリーダイビングという競技がある。
エベレストに登頂した人が1万人弱もいるのに比べ、水深100m以上に到達した人は数えられる程度しかいない。
空気タンクを背負ったとて、水深3~40mが限界。水深100mともなると肺は水圧でゲンコツ程度まで圧縮される。当然ながら、酸素の供給が断たれるので意識を保つことも難しく、実際に死亡事故が何件も起きている過酷な競技だ。
クレイジージャーニーでその存在を知ったが、篠宮龍三さんというフリーダイバーであり、現日本記録保持者がいる。
フリーダイビングは世界大会も開催されているが、メジャーな競技ではないため、優勝賞金はほぼないに等しい。移動と滞在に掛かる経費で完全に赤字。命を落とすリスクが大きい割に金銭的なリターンが少ない。
そんな競技を長く続ける彼に「なぜ潜り続けているのか」をたずねたところ、以下のような答えを返した。
「水深100mを超えた海の色は地球上の蒼をすべて凝縮した深い蒼。その“蒼を見たい”がために潜る」
すぐに浮上しなくてはいけないため、その景色を堪能できるのはターンをしている間のたった1秒間しかない。
最後に残る動機は非常にシンプル
恐らく、フリーダイビング競技を開始してからずっと、記録を塗り替えていく中でも様々な動機が出現していたはずだ。
日本記録、水深100mの壁、世界大会への出場など、高みを目指すモチベーションが湧いては消え、挑戦と達成を繰り返してきたのだと思う。
そんな彼も2年間のスランプがあったと番組内で語っている。プロになって初めて出場する国際大会の前の練習でブラックアウト(意識を失う)を引き起こして以降、記録が伸びなくなってしまった、と。
そんな時、ジャック・マイヨール(人類史上初めて素潜り100m超の記録を作った)が禅の文化に惹かれていたことを思い出し、「因果一如」という禅語に出会うことになる。
「因果」とは原因と結果という意味で、「一如」とは絶対的に同一である真実の姿という意味。すなわち、原因と結果は一緒に生まれるという意味で、過去=「因」、未来=「果」にとらわれることなく、因=果である「今」を大切にするという意味が込められている。
そして、今現在まで残っている動機こそ、深い海の蒼を見たいという五感を刺激するシンプルなものだった。
なぜ動機はシンプルな方が良いのか
なぜ動機はシンプルな方が良いのか。
それは、動機はやる理由であると同時に「やらない理由」「出来ない言い訳」に変換することができるからである。
例えば昨今副業が流行り、ブログのアフィリエイトや動画投稿による広告収入、プログラマーやエンジニア、WEBデザイナーへのスキルチェンジなどが取り沙汰されることが多い。
・〇才からでもできる。
・隙間時間を活用できる。
・主婦でもできる。
・今からでも遅くない。
・みんながやっている。
そんな甘い囁きにほだされて、たくさんの好意的な動機を寄せ集めてやる気になる。しかし、これらは厳しい現実や周囲の環境が変わるとやらない理由に早変わりする。
簡単に出来ると聞いていたが、隙間時間だなんてとんでもない。時間も掛かるし大変じゃないか、と分かった途端。これらの好意的な動機はすべて出来ない言い訳に変わってしまう。
現代社会では往々にして、努力の結果を成功か失敗の二元論(因果応報の捉え方)で捉えてしまいがちである。
「努力の結果は成長であり、努力している”その時”には、すでに成長している。」
因果一如の捉え方で考えると、動機はたった一つで事足りるし、極々シンプルな方が良いのだ。