私の座右の銘に「為せば成る」という言葉があります。幼少のころに親から言われた言葉で、初めて聞いた時から、心に残っています。
これは、バック・トゥ・ザ・フューチャーという映画でたびたび出てくるセリフで、英文では、「If you put your mind to it, you can accomplish anything.」
直訳すると「あなたがそれに心を置くならば、あなたは何でも達成することができる。」となりますが、映画内では、「何事もなせば成る」と訳されています。
この「なせば成る」、ご存じの方もいるかと思いますが、江戸時代の米沢藩主「上杉鷹山」の言葉で有名です。
代表的な日本人として知られる「上杉鷹山」ですが、名前は言葉は知っていても、どのような功績があるか、何を残したか、まで答えらえる人は、中々いないんじゃないでしょうか。
私自身も当時名前だけ調べて概要だけ眺めて知ったつもりになったままだったのですが、読もうと思った本に上杉鷹山のことが書かれており、改めて、大人になった今だからこそ、気付きや学びがあるだろうということで、「上杉鷹山」について書いていきます。
極貧だった米沢藩を立て直した優秀なリーダー
上杉鷹山は、1751年生まれ、1822年に72歳で死去しますが、その一生涯を米沢藩の人々のために尽したと言われています。
弱冠17歳で九代目米沢藩主(今の山形県東南部あたり)となった当時、上杉家は15万石の大名でありながら、100万石の家臣を従え、藩の維持もできないほど、負債を膨らんでいました。※1石=1人を1年間食べるお米の量(180kg)
最悪の財政状態を解決するには、極度の倹約しかないと考えた鷹山は、まず、自身の手当てを半分以下に減らして、食事は毎度一汁一菜を超えないようにしたり、着物は木綿に限るなどして、自らが率先して手本となって、経費の削減に努めました。また、今でいうリストラですが、女中の人数を50人から9名に減らして人件費の削減も行いました。
上杉鷹山が行った3つの改革
経費を削減するだけは抜本的な藩の立て直しはできません。藩財政の改善には、支出の削減だけではなく、収入の増大も必要と考え、行政、産業、社会と道徳の3本の柱で藩の改革を行いました。
1.行政の改革
今では当たり前ですが、世襲制だった当時の時代に適材適所で人材を配置するという民主的な人材登用の在り方を実践していました。具体的には、能力のある人物に3つの役を分けて与えて、それぞれに指示を出しました。
①郷村頭取と群奉行
行政一般を担う総監督としての役割で、農政を取り仕切ったり、年貢の徴収などを行う役
「赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない。しかし母親はこの要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は地合いを生む。真心さえあれば、不可能なものはない。役人は、民には母のように接しなければならない。」
②教導出役
親孝行、寡婦、孤児への慈悲、婚礼、着物の作法、食物と食事の作法、葬式、家の修理。慣習や儀式を人々に教える役(※藩領を12の地区に分けて、各地区に1名配置)。
「地蔵の慈悲をもち、心には不動の正義を忘れるな」
③警察
悪事や犯罪を摘発して取り締まる役。
「閻魔の正義、義憤を示し、心には地蔵の慈悲を失うな」
「教育のない民を治めるのは手間もかかりすぎて、効果も上がらない」という考えのもと、この規律、教育、警察の3役はとてもうまくかみ合って機能した。
2.産業の改革
米沢の地を全国最大の絹の産地とする目標を掲げ、領内に荒れ地を残さない、怠け者を許さないという2通りの方法によって産業の改革を推し進めた。
まずは、平時には侍も農民として働かせ、領内の広範囲にウルシを植え付け、開墾に適さない土地は和紙の原料となるコウゾを植え付けた。
当時は、絹産業に必要な資金を工面する余裕がなかったため、更に費用を切り詰めて、絹産業を推進する資金に充てた。「少しの資金でも長い間続けるなら巨額になる」と50年続けた絹産業への投資で、今も脈々と受け継がれる米沢織を産業として確立しました。
3.社会・道徳の改革
財政悪化で閉じていた学校を再開して、そこへ鷹山の師匠であり儒学者の細井平洲を館長に招きました。
また、西洋医学が畏怖されている時代に医術を学ばせ、薬草の栽培のために植物園を開設させるなど、施して浪費するなかれ。倹約はしますが、必要なところにはきっちりと投資をして、高額な医療機器も教育と実習に必要と分かれば費用を惜しまず、可能な限り入手したと言われています。
経済と道徳を分けない東洋思想的な考え方を改革の中心に取り入れ、富を得るのは、礼節を知る人になるため。当時の制度や常識にまったくこだわることがなく、家臣を有徳な人間に育てることに注力し、また、大名も武士も農民も従わなければいけない「人の道」へ導こうと志していました。
「衣食足りて礼節を知る」
生きるために必要なものが揃っていて、初めて礼儀や節度といった秩序を保つための行動が期待できる。生きるのに必死な状況であれば、礼儀や体裁など気にしている余裕はない。
倉成竜渚という学者が米沢藩を訪れたときのエピソードで、「棒杭の商い」という話があります。
今でいう無人販売所で、「人里離れところに草履やわらじ、果物などと一緒に値札を貼って置いておくが、買う人はきちんと代金を支払っていく、あとで商人が見に来るとピタリと合っている」
200年以上も前の時代で、信用の商売が成り立っていたとは驚きです。
故きを温ねて新しきを知る
なぜ、今日に至るまで上杉鷹山が語られるのか、それは覚悟であるように思います。藩主になる日のこと、鷹山は以下の誓約を誓っています。
1. 文武の修練は定めにしたがい怠りなく励む
2.民の父母となるを第一のつとめとする
3.次の言葉を日夜忘れぬこと
・贅沢なければ危険なし
・ 施して浪費するなかれ
4.言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を犯さぬようつとめる
これらを怠った時は、神罰が下って、家運が消失するだろう。という制約を自身に掛けています。それは自身の欠点や弱点を一番よく知っていたのは自分であり、弱い一人の人間であることを自覚していたからこそ。
美談や功績が多く語られている鷹山ですが、人一倍苦労や困難があったことは想像に難しくないと思います。
保守派から反乱があったり、飢饉による飢餓、改革推進時の反発など、幾度となくピンチが訪れたことでしょう。
しかし、これらを貫き通したからこそ、潰れかけの米沢藩の立て直しだけでなく、後世に語り継がれ、背中を押すお手本となったように思います。
自分と同じような経験をした人、志を持った人は細かい状況は違えど、昔にも絶対いたはずです。温故知新という言葉がありますが、これからをより良く生きるために過去を訪ねてみるのもいいのではないでしょうか。