渋谷ハロウィンに沸く心理と正常化の鍵

渋谷ハロウィンに沸く心理と正常化の鍵

昨日10月31日は、ハロウィンでした。

ハロウィンはケルト人が行なっていたとされるドルイド信徒による秋の収穫祭。古代には、そんな宗教的な意味合いの強いイベントだったわけですが、皆さんご存知通り現代に至ってはそのほとんどの意味が失われています。

古代が始まりですから、本来は数千年の歴史を持つ歴史的なイベントです。

それが「トリック・オア・トリート」の合言葉から始まるお馴染みのカタチになったのは20世紀。実は半世紀ちょっとしか歴史がありません。アメリカの企業やメディアが仕掛け人として、極めて資本主義的な変遷を経ています。

そしてその最たる末路として、近年日本で異様な盛り上がりを見せている、コスプレ百鬼夜行へと帰結するのですが、歴史を鑑みるとこの変遷もまた、ハロウィンを取り巻く一面的な意訳の亜種なのかもしれないなと思わないでもないです。

故に、ネット上で散見する「ハロウィン本来の意味はどこいった」みたいな嘆きは少し的外れなのではと感じてしまいます。

ですが、渋谷のハロウィンはその中でもかなり特殊な様相。これをハロウィンの変遷上に置くことには、いくばくかの違和感があります。



異様すぎる渋谷ハロウィン

「ハロウィンは渋谷へ」と言う風潮が生まれ始めたのは、2010年代に入ってからだったように思います。

当初は、「何だかいつもより人が多いな」程度の感想でしかなかったものが、流石に看過できなくなってきたのは2015年くらいからでしょうか。

今は職場が駅を挟んで反対側なので平穏そのものですが、当時の職場の立地だと通勤でスクランブル交差点を通らざるを得ない状況でした。交差点には進入するための行列ができるほどの人の数。交通整理で、強制的に二段階右折のような誘導が行われ、通過するのに通常の数倍の時間と精神を摩耗する状態に。

翌年からはおとなしく一駅ほど歩いて混雑を回避するとか、勤務時間をずらして混む前に帰るなど対策をこうじなければならず、辟易した1日を過ごしていたことを記憶しています。

そしてとうとう事件に発展してしまった昨年2018年。

この年は軽トラ横転や器物破損、痴漢行為などによって23人の逮捕者、10人が書類送検に至る一大騒動に。これで一挙に、ハロウィンに渋谷に集まる人々を「暴徒」といった言葉で形容し、危険視する流れが一般に顕在化してしまいました。

これを受け渋谷区は今年、1億円強の税金を投じ、セキュリティの強化をはじめとした様々な対策を迫られました。

FNN.jpプライムオンライン

この異様な現象を、「ハロウィンの流行」という単なるブームとしてしまう視点が、違和感の源泉。「なんとなく渋谷スクランブル交差点に集まる」という流れができたそもそもの発端を思い返してみてください。

「ハロウィン」と「渋谷に集まる」を切り離す

最初に、なんとなく渋谷スクランブル交差点に集まりだしたのは、間違いなくサッカーワールドカップ。

2002年の日韓開催大会で日本の勝利を交差点ですれ違う人とのハイタッチという形で分かち合う姿が、ある種美談のように取り上げられ話題になりました。初の自国開催WCで活躍する日本代表の勝利を喜び、そのいつまでも冷めない想いを分かち合うために人々は渋谷スクランブル交差点を何度も往復し、「パンッ」という軽快な音と共に、手のひらを重ね合わせていたのです。

それからも4年に1度。開催国によって試合時間が深夜になることもあるので、規模には差がありますが開催年毎に渋谷スクランブル交差点ではお祭り騒ぎが行われています。

言ってしまえば、ハロウィンはこの代替です。あえてハロウィンで無ければならない理由は全くありません。集まる口実があればいいんです。

そしてハロウィンの持つ「仮装」という属性がとても都合よくマッチしたため、これだけの人を渋谷の街に惹きつけたのではないでしょうか。

「ハロウィン」と「渋谷に集まる」を切り離してみると本質が見えてきます。

サッカーワールドカップ時に渋谷に集まり、勝利という同じ喜びや興奮を赤の他人と共有する多幸感。その中の喜びや興奮の「理由」を抜いたもの、比較するとまるで出涸らしのようなものが、ハロウィンに渋谷に集まる人々の心理です。

渋谷ハロウィンはハロウィンの辿ってきた他の文化的な変遷とは別の軸に置いて考えねばなりません。このムーブメントは明らかに文化的ではなく、社会感情的な経路が源泉にあります。

少し大仰に解釈すると、実際に顔と顔とを突き合わせる関係が希薄になってきている社会的な不満足感の現れの様な気もします。もしくは、社会的にかけられている抑圧に対する反発が根底にあるとも考えられます。ハロウィンの持つ「仮装」という属性がうまく非日常性や匿名性を演出し、普段は覆っている外面、心理学用語で言うところのペルソナを取り払い、心を解放する一助となっているのでしょう。

エネルギーのベクトルを決めてあげる

現渋谷区長は非常に優秀な方ですが、上記の様に考えていくと「渋谷区はハロウィンにルールを設けない」という方策は明らかに愚策です。

サッカーワールドカップにおける「応援」や「喜びの共有」の様な共通のベクトルがないため、ハロウィンで渋谷に集まった人たちは、エネルギーの発散方向を定めることができないのです。そこへ来て、「各々のモラル向上に期待する」というのはあまりに無謀です。

行き場を失ったエネルギーのベクトルが、暴走を生み事件に繋がっているのですから、この行き場を共通の方向に向かわせない限り、渋谷ハロウィンは消滅or暴走の二択しかありません。

これだけの人数が自動的に大挙してくれる機会をみすみす消滅させるなんてビジネス的にはあり得ないので、試しに神輿でも担がせてみるとか、自由参加型の仮装パレードにしてみるとかやってみると、嘘の様にスッキリすると私は愚考します。

トレンドカテゴリの最新記事