『論語と算盤』から読み解く、渋沢栄一が日本経済に残したかった2つのこと

『論語と算盤』から読み解く、渋沢栄一が日本経済に残したかった2つのこと

日本の歴史的偉人を描くNHKの人気ドラマシリーズ『大河ドラマ』、その60作目となる2021年作品『青天を衝け』の題材に、渋沢栄一が選ばれた。

渋沢栄一は明治維新以降、現在のみずほ銀行やJR東日本、東京ガスに東京証券取引所と、他にも数えきれないほどの──総勢約470社にも及ぶ企業を創立・発展させた日本最大の実業家である。それら渋沢が設立に関わった企業の多くが、現在も日本経済の基盤となる大企業に成長しているため、他にも“近代日本の設計者”とか“日本資本主義の父”などとも呼ばれている。

その渋沢栄一が今、脚光を浴びる切っ掛けとなったのは、一昨年発表された2024年度に刷新される新一万円札の肖像に選ばれたことに端を発する。

このニュースに促され、書店には渋沢の口述がまとめられた『論語と算盤』が大々的に平積みされ、それによってさらに知名度を上げる結果となった。

かくいう私も、そんな風潮の中『論語と算盤』を手にした一人である。



渋沢栄一と徳川家康と論語

『論語』とは、中国朱子学における四書(論語・大学・中庸・孟子)の内の一冊で、孔子の教え──己を修めて人と交わるための日常の教訓──が説かれている。

渋沢栄一は、この『論語』を“最も欠点の少ない教訓”と評し、幼い頃より生涯にわたり携えた。曰く「私は論語を社会で生きていくための絶対の教えとして常に自分の傍から離したことはない」のだとか。

大河ドラマ作中でも、幼少期に父より東照大権現(徳川家康)の遺訓を言い聞かせられる場面が印象的に描かれていた。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
己を責めて人を責むるな。
及ばざるは過ぎたるより勝れり。

この東照公遺訓、実は論語を元にしている。

冒頭の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は論語にある曾子の言葉と重なるし、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」は論語の「過ぎたるは及ばざるが如し」から来ている。他にも両者の符合点はとても多い。

渋沢は両者を照らし合わせ「大部分は論語から出たものだと分かった」と結論し、また徳川泰平三百年の、そのほとんどは論語の教えにより成ったのだと、明言している。

渋沢栄一は、上述したように日本実業界の父であるもう一面、論語の道徳的な教えと経営とを密接に結びつけ成功を収めた体現者でもあった。

渋沢栄一が見透かしていた資本主義の落とし穴

『論語と算盤』は一見して、経営哲学や処世術を満遍なく網羅する優れた啓発本の様相であるが、一読してみると渋沢栄一が抱いていたであろう憤りをベースとした根本的な主張が、二つの切り口で垣間見える。

その一つは「事業は道徳で行うべき」といったものだ。

渋沢は、その文脈で『士魂商才』という造語を生み出し提唱している。これは「武士の精神と商人の才覚をあわせ持つ」という意味となる。

当時、武士道のような道徳教育はもっぱら武家社会のみで行われ、経済に従事する商人の間では、武士道などを大事にしていては商売は立ち行かないと、あまり重んじられることがなかったのだそう。渋沢はこれを「とても残念に思う」と同時に「商人にも商業道徳が無いと真の豊かさは実現不可能だ」と言っている。

これは現代でも通ずるところがあると思う。

現代の絶対的経済構造である“資本主義”という枠組みにおいて、極めて端的に言えば、企業活動とは利潤の追求であり、優れたビジネスモデルとは、より多くの資本を集められる仕組みのことを指す。そうした価値観の中、ビジネスは己の欲望をエンジンとすることが往々にしてある。

近年では極端な個人主義信仰も手伝って、その風潮は“暴走”と評しても良いレベルにまで加速し、数々の大惨事を引き起こしてきた。

ここ数年では幸いなことに──特に若い世代を中心として──社会起業などから見て取れるような全体主義への移行の片鱗も感じられるようになってきたが、まだまだマジョリティは個人主義にあるように思う。

渋沢栄一は決して資本主義を否定しているわけではない。それどころか日本の資本主義化を押し進めた中心人物である。

しかし一方で、渋沢は当時から資本主義の抱える上記のような問題も見透かしており、その解決にとって道徳が重要だと考えていたのだ。

長い歴史の中で刻み込まれた富への誤解

渋沢栄一は、経済的に富むことと道徳的で在ることの共存についても多くの言葉を重ねている。

これがもう一つの切り口となる。

『論語と算盤』の第四章“仁義と富貴”から少し引用する。

従来、儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴の観念、貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は、氷炭相容れざるものとなっておる。

つまり、これまで言われてきたような、“道徳的に世を治めることと経済的に富むことは相入れない”という論語の解釈は誤解だと言っている。加えて、論語二十篇をくまなく探してみても、そんな意味の言葉は一つも見つからなかったし、ましてや孔子は富を嫌っていたどころか経済活動の道についても教えている、と渋沢は続けている。

これには──論語を熱心に勉強してこなかった私でも、少し心に刺さるものがある。

世界の宗教を見渡してみても、商人は下賤だとか、金を稼ぐことは卑しいだとか、そのような教えは各所に散見する。日本であっても例に漏れず、士農工商に表されるように商売人の身分は最も低くみられていた。

そしてなんとなく、そういった宗教観や世界観に疎い我々現代人であっても、富むことに対する根拠のない罪悪感のようなものは少なからず感じるところがある。

金持ちは悪いことをしているに違いない。あいつは大金を稼いでいるからきっと弱者を謀っているんだ。そんな根も葉もない言いがかりを想起してしまう。ろくに裏取りもせず、脊髄反射でそのように考えてしまう。

これは恐らく、長い歴史の中で私たち民衆に刻み込まれた思考回路なのだろう。

もちろん悪いことをして大金を稼ぐ者もいるし、そういった存在を憎む気持ちも、逆に富める者を妬む気持ちも、人には存在する。しかし私が思うに、古から統治者は、そのとても強い感情を過剰に煽り、統治に利用していたのではないだろうか。

民が過剰に富まないように、統治に逆らえないように、金銭を賤むように、ある時期から──具体的には宗教団体が過剰な力を持ち始めた紀元後数百年あたりから操作され始め、大きなパラダイムシフトが起きたのは、世界史を見ても明らかだ。

それにより民衆には、富める者に向けられる侮蔑の矛先が自分に向かうことを恐れ、富むことへの強い抵抗感が芽生える。

もちろんそんな刷り込みだけで富を諦められるものではないが、これは一方で、貧しいことに甘んじる免罪符にもなった。怠惰でいたいというもう一つの強い欲望も満たされる、とてもよく出来たマインドコントロールだと思う。

そうして私たちの思考の中で、富貴と道徳は切り離されてしまったのだ。

道徳と経済の調和

少し本題から逸れてしまったが、渋沢栄一はこの二つの切り口から、当時の──現代にも通ずる誤った先入観を正したかったのではないかと私は読み解いた。

「事業は道徳で行うべきである」
「道徳と富貴が相入れないというのは誤解である」

この両者の共通点がタイトルにある、論語と算盤──つまり“道徳と経済との調和”なのだ。

本書の冒頭でも渋沢栄一の信条として以下のような言葉が記されている。

算盤は論語によってできている。論語はまた算盤によって本当の富が活動されるものである。故に論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いものであると始終論じておるのである。

渋沢栄一の生きた時代は今と比べてもっと商売人や金銭を稼ぐことへの侮蔑が顕著だった。そんな環境の中、実業界でこれだけの偉業を成し遂げた彼がどんな立ち回りを演じてきたのか──いや、そんな着眼点ではないかもしれないが、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の今後に期待している。

そして、ぜひ『論語と算盤』は一読しておくことをお勧めしたい。

論語に明るくなくても実に丁寧に書かれており、凝縮されたその内容も圧巻だ。私自身、手本としたい思想や哲学が随所にあったし、また折を見てこの場でも、個人的に響いたポイントを紹介したいと思っている。

ちなみに、最初は現代語訳版を手にすることもお勧めしておく。原文はダイレクトに書かれている分、大変エネルギッシュである反面、現代人にはやはり読みづらく、私は三分の一ほどで挫折し、現代語訳を読んでから、再度挑戦することでなんとか読破した。

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