「映画を早送りで観るサイレントマジョリティ」のホンネ

「映画を早送りで観るサイレントマジョリティ」のホンネ

先週、現代ビジネスの「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来、という記事がとても興味深く、面白かった。何故、映画を早送りする人が増えたのか。簡単に記事を要約すると、以下の理由からだ。

  • 作品の供給過多。⇒新たな作品がどんどん追加されるので、時間が足りない。
  • コスパを求める人が増えた。⇒話の内容がざっくり分かればいい、効率がすべて。
  • セリフで説明する映像作品が増えた。⇒まどろっこしいと感じる無駄な描写が多い。

結論として、いつしか映画が「作品からコンテンツへ、鑑賞から消費へ」と変わっていってしまったというもの。

これにはネットでも賛否両論あるようで、様々な議論が交わされていたが、私なりにもう少し深ぼっていきたい。

利便性は上がったが、体験価値が下がった

今ほどインターネットやスマホが普及する前の前。20数年ほど遡ると、近所には個人経営のレンタルビデオ屋さんが数多くあった。都内であればおそらく、小さい駅でも駅前や少し離れたところに必ずと言っていいほどあったはずだ。

その後、TSUTAYAやGEOといった大型店が台頭して小さいショップは数を減らしたが、それも束の間。近年、レンタルビデオ店自体がその数を減らしている。

以前は、店にわざわざ足を運んで、新作、準新作のブースを見ながら、旧作の名作もレンタルする。借りる日数が多ければ料金は高くなるし、返すのが遅れると延滞料が掛かる。

こんな手間も時間も掛かることを当然のようにやっていた。若い世代の中にはビデオテープを見たことがなかったり、その存在を知らない人だっていることだろう。

人は常に便利で楽な方法を探している。今の時代、インターネットさえあれば、どこでも、誰でも、簡単に、いつでも、すぐ、映画を見ることができる。

結果的にこんな便利な世の中になったのだから、みなに等しくメリットがあることは間違いない。ただ、一方で手軽になったからこそ“ありがたみが薄れてしまった”のだと考えている。

人は簡単に手に入れられる安価なものにあまり価値を感じない。例えとして適切かはさておき、同じ機能を持った商品でも、100円ショップで買えるものと1,000円のものでは、きっと多くの人が前者を消耗品としてぞんざいに扱うだろう。

映画を始めとした映像作品を貶めるような意図はないが、倍速で効率的に映像作品を消費する背景には、労せず取得できてしまうようになったことで、過程も含めた満足感、達成感を感じにくくなり、そのものの価値をユーザーが値踏みできなくなった。

これが、鑑賞が消費に変わった転換点だと考えている。

小学生の頃、映画ゴッドファーザーシリーズをすべてレンタルして、週末母と夜更かしして見たりしたのだが、バイオレンスで過激な描写もさることながら、内容も含めて、良い思い出として記憶に深く残っている。

店まで自転車で一緒に借りに行って、家に帰ってきて見る。見終わったら、期日までに返しに行くまでがセット。今では、サイトにアクセスして一覧画面をスクロール、詳細画面、再生ボタンの2クリックですぐだ。返しに行く必要はないから途中で見るのをやめてしまってもいいし、自分の好きな時にいつでも再開することだってできる。

心理的なハードルの高さと価値は比例する。

鑑賞のハードルが著しく下がって広く一般化した一方で、映画という存在が多くの人にとって、趣味嗜好品から身近な生活品の区分に移ってきたと考えるとコスパという概念が持ち出されるのも妙に納得できてしまう。

倍速で再生するのは「時間がない」からではなく「もったいない」

スマホが広く行き渡ってからというものソシャゲやSNS、ネットメディアはユーザーにできるだけ長く滞在してもらうために創意工夫を凝らしてきた。消費化のもう一つの背景として、スマホ普及によるユーザーの可処分時間の争奪戦が根本にある。

うまく現実から切り離して画面を占有し続けることを重視した結果、いつの間にか与えられた餌をただただ受動的に消費するよう無意識下に刷り込まれてきたことは否定できない。

それをユーザー側が求めたからなのか、提供側がそう仕向けたのか、ニワトリ卵の話にもなってしまうが、個人的には提供側の意図(目的意識)が強く働いているように感じている。


加えて、無意識的に消費心理に拍車を掛けているのが、行動経済学でいうところのサンクコスト効果だ。一言でいうともったいない精神。

取り戻すことができない過去のコスト(時間、労力、お金)が、意思決定の際に大きく影響を与えるというもの。

例えば、一度行列に並び始めると途中で抜けたいと思ってもこれまで並んだ時間が無駄になるからそのまま並び続けてしまったり。食べ放題でいつもより沢山食べようとして、どうにか元を取ろうとしてしまったり。はたまた、ギャンブルや投資で負けが込んでいるときにきっぱり損切することができない…etc。

今現在を起点にして損益を考えるのが合理的なはずなのに、人は既に支払った、または支払うことが決まっているコストを多分に評価してしまう傾向があり、今後、損失が目に見えて明らかであっても継続してしまう。そんな愚かな一面を持ち合わせている。

数百円~千数百円の利用料金といえど、動画配信のサブスクはこの影響を無意識に受けている。せっかく月額料金を払っているし、話題だったあれ観ようかな…なんて思う人も少なからずいるはずだ。むしろそういう人が8割いてもおかしくはない。

見ないことを損だと感じている人は、見たという結果を得れば心の会計をマイナスから0にできる。

忙しくて時間がないから効率的に見るんだ!という強固な理由ではないけれど、見たという結果を一早く獲得したいがため、短絡的に倍速再生という手段をとる人がいるのは至極自然な流れともとれる。

繰り返すが、1本見ようが10本見ようが月額料金は変わらない。

「倍速で見るくらいなら見ないのが一番コスパがいいじゃないか」という合理的かつ真っ当な正論コメントを言われるとグゥの音も出ないが、正論で人の行動を変えることはできないし、人の感情が合理的ではないこともまた真なりだ。

映画早送り問題とネタバレ問題の関係

完全に余談ですが、今回の映画早送りの件は、ネタバレ認否問題とも酷似している。ネタバレ認否が記憶領域の傾向で分かれるという記事を見て、なるほどなと思ったのでぜひこちらもぜひ紹介したい。

頭の中で覚えている長期記憶には「意味記憶」と「エピソード記憶」があり、意味記憶は「〇〇は〇〇」といった概念的な知識。エピソード記憶は時間や場所やその瞬間の感情、体験とつながる記憶をいう。

必ずしもどちらかということではないが、体験する時にどのように考えながら観ているかによって、ネタバレ認否に違いがある、ということらしい。

意味記憶が中心の人は物語を俯瞰的に見る。物事の因果関係や話の起承転結、あらすじや展開を頭の中で構築しながら観る。一方で、エピソード記憶が中心の人は物語の登場人物に感情移入をしたり、自分の感情がどう揺れ動いたかを大事にする。

意味記憶が中心の人は物語の内容にフォーカスしているので、結末を知っていても楽しめる。エピソード記憶は自分の感情にフォーカスしているので結末を知ることを嫌がるというワケだ。

あくまで傾向の話であって、ケースバイケースだろうが、知るというのは概念的な知識の補完だから、もしかするとネタバレOKの人は倍速再生をしやすい、逆にネタバレNGの人は倍速再生をしにくいという相関関係もあるのかもしれない。

さいごに

私個人としては、映画を早送りでみるし、ネタバレも気にしない方である。ただ、早送りしない映画もあるし、ネタバレされたら面白くないと思うものもある。

ラストにハッとさせるような大どんでん返しがあったり、伏線を張り巡らして物語の後半に綺麗に回収していく映画もそう。結末を知ったうえで2回3回と繰り返すことで細い仕掛けに気付く楽しみ方だって知っている。

結局、それぞれでいいじゃないか、でまとめたいわけではない。

クリエイターと呼ばれる人達は、ユーザーの潜在的な深い部分を探り、どのように訴え掛ければ人の心を動かせるか、常に思考を巡らせているものだと考えている。

環境が変われば、行動も変化するのは当然だが、人の本質的な部分はこの2000年で何も変わっていない。

早送りで観るという行動はたまたま表面化した氷山の一角のようなもので、この部分だけを切り取って善悪を判断しようとしたり、対立構造ができてしまうことにはどうしても違和感を感じてしまう。

その下にはまだ誰も足を踏み入れたことがない未開拓のブルーオーシャンが広がっているかもしれない。

勝手な妄想だが、作り手の方々の中には頭ごなしに否定をするのではなく、むしろ好意的に受け取り、これまで映画に深く関わりがない層に対してどのようにアプローチしたらいいか現在進行形で戦略を練っている人もきっといるはずだ。

一視聴者として、今後も動向に注目していきたい。

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