習慣を身に付けるために必要なたった一つの金言

習慣を身に付けるために必要なたった一つの金言

ところで、“習慣”とはなんだろうか。

書籍やネット記事など、世に出ている多くの情報を一覧してみると、それは大体「はじめるもの」「やめるもの」といった二つの切り口で語られていることが多い。

はじめたい習慣の代表格といえば、早寝早起や勉強、読書、運動、片付けなどが挙がる。最近はマインドフルネスといった観点から、瞑想、メモや日記などを新たに習慣付けようと試む人もいる。

逆にやめたい習慣の方は、飲酒や喫煙、ギャンブル、無駄遣い、食べ過ぎ、スマホ依存。こちらは癖と言ったほうがいいのかもしれないが、二度寝、遅刻(時間ギリギリに行動してしまう)、イライラやそれに付随する所作、マイナス思考などに思い悩む人も見られる。

多くの人にとって習慣とは、自己を向上させるために「身につけるもの」または「手放すもの」といった認識がされていることと思う。



習慣の概念を本質的に捉える

習慣という言葉の意味を辞書で調べてみると、以下のようにある。

「日常の決まり切った行い。反復により習得し、少ない心的努力で繰り返せる固定した行動」

(広辞苑から引用)

この説明は実に簡潔でわかり易く、誰もが腹落ちする内容かと思う。しかし、実態を表すに足るかと言われると、少し言葉少なに感じる。

私の解釈からすれば、習慣とは“その人を規定するモノ”だ。

大人にとっては数十年間という長い期間に何をしてきたか、どう生きてきたかの総体であり、子供にとってはこの先の自分をどう形創るかの指標になる。

習慣とは、その人の“生き方のカタチ”に他ならない。

それ故に、習慣を単なる“行動”として定義してしまうことに少し不足を感じてしまう。何故ならこの解釈で言えば、「日常の決まり切った行い」とやらがないこともまた、習慣と言えるからだ。

例えば、決まった時間に寝起きしないことも“生き方のカタチ”に他ならない。運動や読書をしたりしなかったりすることもその人の人生のカタチだ。

その積み重ね自体が習慣であり、それによって規定され表出した形質が、その人そのものとなる。

些細な違いではあるが、習慣を“固定した行動”ではなく“生き方のカタチ”と定義すると、本質を見ることができる。本質を見ると、それぞれの行動自体にはさほど良し悪しがないことが分かる。

ダラダラする事が重要だと思えばそれは悪いことではない。飲酒や喫煙、ギャンブルも同じだ。それで死しても本望という強い意志があるのなら、それはそれでアウトローな味のある人間と言えなくもないのではないだろうか。

自分がどう生きたいかに根ざした行動であるか否か。それを自分自身で規定できているか、納得できているかが重要なのである。

もしかしたらその結果、客観的には秀れた人間と評されないかもしれない。しかし、他人の視座のみを基点にして身に付けた習慣とは、自分の“生き方のカタチ”と成り得るだろうか。そう胸を張って言い切れるだろうか。

理性で律しても動かない

本質を捉えず、表層の“やり方”のみに固執してしまうと、新たな習慣付けは苦痛でしかない。

何故なら習慣とは、その人の“生き方のカタチ”そのものであり、これまでの自分を規定しているものなのだ。自身をどんなに卑下して捉えていたとしても、そうでなかったとしても、それに背く行為-自分の形を変える行為-は極めて強い精神力を要し、大きな心の磨耗を伴う。

故にこれを、理性で律するというのは中々に骨が折れる。

もしかしたら、良い習慣を形づくっている人に対して、理性的で理知的な人という印象を持っているかもしれないが、それは大きな間違いだ。私の経験上、感情やノリで、一般的には短絡的と捉えられかねない“思いつき”で実行を試みた時の方が、柔軟に新たな習慣を取り入れることに成功している。

これは一体何故なのか。

それは人間の行動が、理性よりもずっと強い力で“感情によって左右されている”からに他ならない。

冒頭でも例を挙げたが、世の中では習慣を「良いもの」「悪いもの」と二極論的に分類されることが多い。これらは実に論理的に解釈され、分けられている。

理性的な人は、その論理的さ故にさほどの疑念も抱かずに「良い習慣を身に付けなければいけない」「悪い習慣を手放さなければいけない」と思い、自己は律すべきものと考える。

しかし理性は言い訳も上手い。

やらない理由もやれない理由もすぐさま見つけ出し、論理で自分を納得させてしまう。これが、理性的な人がなかなか習慣を変えられない所以だ。理知的であればあるほど、尤もらしい理由を作る事にも長けている。

新しい習慣付けをするにあたり最も重要なのは、自分の在りたい姿、成りたい人格、目指すべき“生き方のカタチ”を夢想することにある。

習慣は日常においてとても些細なものだ。体に良いものを一度食べたとて、劇的に体調が改善することはあり得ないように、一回一回の影響は微々たるもので、とても実感に値するものではない。

しかし、自分の“生き方のカタチ”として規定した途端、自己の人間的形質を自らコントロールして、如何様にも変化させられることのできる極めて大きな可能性を感じることができる。

どんな人間にでもなれるのだとしたら、一体どんな人間になりたいだろうか。

行動の一つ一つに対して良い悪いを断定する前に、一度自分の理想像を夢想し、その人ならどんな“生き方のカタチ”を有しているのかと想像してみてほしい。それに倣うことで、自分もまたそんな人間になれるのだと思えば、感情が動く。

その感情の動きが、習慣を変える-自分を規定しているものを変える-ことのできる唯一の種子であり、方法だ。

習慣を“薬”に変えるために必要なこと

習慣は実に恐ろしい。

一つ一つは極めて些細な行動であり、例えばそれが毒であることに、あるいは一生気がつくことができない。

だからこそ「それは毒になり得るのだ」「一般的に毒なのだ」と言われても、それが事実か否か証明できないことで、理性的な言い訳に敗北してしまう。論理的思考は目に見えない、科学的に説明できない事柄に対して脆弱すぎる。心で感じた直感的な疑念も、証明できなければ無いものと扱ってしまう。

その結果、理想とかけ離れた“生き方”をする自己を規定してしまうことが往々にしてある。「こんなはずじゃなかったのに」と他人を羨む人格に、一歩間違えれば陥る。

しかし一方で習慣は、よく理解し、使いこなすことで、極めて優秀な良薬となる。

一つ一つは極めて些細な行動であり、とても達成し難いことでもないのに、その努力の大きさに比して、あるいは大業を成し遂げることにもなり得る。

何より自分の完全なコントロール下で、自分を規定できるのだから素晴らしい。

習慣、すなわち“生き方のカタチ”を自ら決め、実行することで、自分をどんな望む形質へも変化させることが可能なのだ。

故に「良い習慣をはじめる」「悪い習慣をやめる」などと表層の“やり方”を目的化してはいけない。理性で律しようとしても決して根付かない。
自分がどう生きたいかに根ざした行動であるか否か。それを自分自身で規定できているか、納得できているかが重要なのである。

習慣は「自己を向上させる」方法論ではなく、「自己をカタチ創る」その人の形質そのものなのだ。

では最後に考えてみてほしい。

あなたはどんな生き方をしたいのだろうか。

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