アフターコロナの世界をどう生きる

アフターコロナの世界をどう生きる

現在各所で、新型コロナウイルス蔓延「以前-以後」という形で、社会意識的枠組みの定義がされ始めている。

この議論の大半は、「After コロナ」つまり新型コロナウイルスが世界に蔓延した現在から未来にかけて、大規模な意識変容、既成価値観の変革、要は“パラダイムシフト”が起きつつあるといった論調である。

今私たちは、新型コロナウイルスという未曾有の災害に面し、様々な生活様式の変化を求められている。

ソーシャルディスタンス。「人との物理的距離を広く保たなければならない」というたったこれだけの課題を達成するために、会社や学校に行くことも外食することも娯楽施設に赴くこともままならない。今まで当たり前に享受してきたあらゆる“自由”が剥奪されている気分でいる方も多いのではないだろうか。私ももちろん例外なく、極めて不便な思いに苛まれている。

そんな中にあって、「After コロナ」という定義は受け入れがたいモノであると思う。なぜならその論調は、この災害を乗り越えた先も、決して以前の世界「Before コロナ」には戻らないといった結論を指しているからだ。

最悪のケースを想定していけばどこまでも悲観的に考えられてしまう。忍耐を強いられている多くの人たちにとって目を覆いたくなるような可能性だろう。あくまで可能性であるのなら、見ないように、異なる結末-また以前のような生活に戻る未来-を模索したい気持ちになるだろうと思う。

人とはそもそも変化を嫌う生き物だ。現状にしがみつくエネルギーに多くのカロリーを割いてしまう性質を持っている。「新型コロナウイルスと共存していく未来」などという悪夢的な変化というのを抜きにしても、容易に受け入れられることではないかもしれない。

しかし、私たちは柔軟に未来を予想し対応していかなくてはならない。



収束はするが終息はしない

残念ながら、新型コロナウイルスの猛威は、ある程度収束はするが終息はしない。

ワクチンや特効薬の開発、都市封鎖など対策効果の進捗が日々報じられている中、「いつまでこの生活を続ければ良いのか」という“期間”的な関心に終始していると思う。外出自粛はいつまで続くのか。ワクチンの実用・普及には年単位の時間がかかる。先日、米ハーバード大学が出した声明で「少なくとも2022年までは断続的な外出制限が必要」と聞いて辟易された方も多いと思う。

しかしそれですら、先進諸国に限定された話だ。CNNやBBCをはじめとしたアメリカ・EUの報道機関では現在、アフリカなど途上諸国への支援をどう行っていくかという議論も徐々に注目されつつある。当たり前のことだが、グローバルに開かれた現代社会において、限られた先進諸国のみが助かっても意味がない。僅かなほころびから、容易に第二の災害へと発展してしまう。

そして大なり小なり、遅かれ早かれ、確実に“パラダイムシフト”は起きる。

これは不可避であり、人類が適応しなくてはならない21世紀の課題と認識したほうが良さそうだ。上記のように、収束させること自体が数年を要する大仕事であることは言わずもがな、厳戒態勢を敷き始めてから現在までの数ヶ月でも、些細とは決して言えない認識の移り変わりが見て取れる。

身近なところで言えば、遠隔勤務(リモートワーク)という働き方が見直されている現場も少なくない。アメリカでは多くの学校でオンライン授業をいち早く敢行し、急速に順応している。中国では食生活といった文化的側面においても、野生動物を食べない、犬の食用を禁ずるなどの変革が起きている。

この様な変容は、これから全世界的に波及していくだろう。

この短期間で確かに変容しつつあるパラダイム

新型コロナウイルスの脅威が直接的に影響を及ぼしている現在において、私たちは様々な生活様式の変化を、必要に迫られ急激に強いられている。

他者との物理的な接触が大きなリスクとなった私たちの生活環境は、ソーシャルディスタンス-社会的距離-を広く保たなければならないものに成り果てた。外出は必要最低限に制され、旅行や外食など以ての外、買い物に出かけることや通勤通学ですら「不要不急ではないか?」という思考に支配され自粛を余儀なくされている。

これを“一時的なもの”と断ずることもできる。確かにこれだけ急速な疫病の蔓延は長く続かない。全世界が現代文明の粋を集めて対策に当たっているのだから、そう遠くないうち結末に至る。それを「疫病に屈する」なんていう最悪のケースを想定し、悲観し過ぎる意味はあまりない。

故にいつかは収まるという結論に異論はないが、この一連の社会的混乱“コロナショック”が落ち着いたからといって、以前の世界「Before コロナ」に戻るという論理は成立しない。

“働き方改革”本来の効果への気づき

例えば、会社に出向けなくなって在宅勤務をし始めた人の中には、「意外と支障がない」と感じ始めている人もいる。

アドビ システムズ株式会社の調査では、「テレワークで自身の生産性が上がったか」という問いに、34%がとても上がった、52.4%がどちらかといえば上がったと答えている。「テレワークを継続したいか」という問いには、52.6%が積極的に実施したい、40.6%がどちらかというと実施したいと現在の遠隔勤務体制をポジティブに捉えている。

もちろん現状、世間でもてはやされているほど劇的に働き方の遠隔化が進んでいるとは言い難い。3/31〜4/1にかけて厚生労働省がLINEを通じて行った調査ではまだ、「仕事はテレワークにしている」と回答した人の割合はたったの5.6%だった。しかし一度テレワークを経験すると、上記のようにおよそ9割の回答者がその働き方を好意的に捉ることがわかった。

これを踏まえると、外出自粛が解禁されたとして少なくとも一定の割合でテレワークは継続される。出社しない人が増える、ないし出社日が減れば1日当たりのオフィス街の人口が減り、そこにある飲食店の需要減が起こる可能性は大いにあり得る。これにより勤務地と住宅地での経済バランスも変わるし、そもそも消費が分散する。

経済圏の拡散可能性への気づき

もう少しマクロで考えてみよう。

現代文明-資本主義-の理想形であった“一極集中の「都市型」経済”が見直されつつある。これに関しては、過去にも多くの機会があったのではと思わざるをえないが、都市に人口を集中させ経済を効率良く回すというモデルは、災害に脆すぎるという認識が専門家を飛び越えて、一般レベルにまで広がっている印象がある。

もしも先に首都直下型地震が来ていたのならば、それが大きなターニングポイントになっていたかもしれないが、都市機能を人口過密させた小さなエリアに集中させてしまうリスクが、今回多くの面で露呈した。

ではこれからすぐに多くの企業や商業施設、行政機関が地方へ拡散するのかというと、こちらはそう簡単にはいかないだろう。都市型モデルの経済的メリットは-特にインテリ層や資産家にとって-あまりに大きい

しかしそこに内包された危険性もまた大きいこと。そしてそのデメリットを補って余りあるほどのメリットが、果たして一般市民レベルにも平等に与えられているのかという疑問も、大衆意識的に表面化していくのではないだろうか。

地方に住まいを移せば圧倒的にコストを抑えられる。同じ稼ぎでも生活の水準に雲泥の差が生じることは、今まででも誰しもが知るところであった。今後テレワークをはじめとした遠隔勤務が浸透していけば、地方移住を具体的にイメージし始める人も増えていくことが予想される。

新しいプライベートの過ごし方の出現

プライベートでは、会社の同僚や友人と飲みに行く機会が極端に減ったことで、zoomをはじめとしたビデオチャットツールを利用した「オンライン飲み会」が盛り上がりを見せている。

私も実際にやってみたが、お世辞にも外食での飲み会と比較できるものではない。飲食物は共有できないし、コミュニケーションも限定的になる。高い付加価値として実感できる体験には程遠い印象を持った。

しかし一方で、普段頻繁に会うことのできない遠方の友人とも気軽に交流できるメリットを実感した人も多いのではないかとも思う。お互いにお取り寄せ品を送りつけあって、そういった贈答品を肴に飲むという発展した楽しみ方を見つけている人もいる。

オンライン飲み会が居酒屋で集まって飲むという体験の代替になるかと問われれば、それはにわかに肯定しがたい。だが、全く別の娯楽として今後も多くの人の選択肢として認知され、浸透していく可能性は感じる。

今何が起こっていて、これから何が起こり得るのか

似たような変革を私たちは過去すでに経験している。

ドットコムバブルを経た00年代後期、SNSやスマートフォンの登場によりテレビや出版などのメディアのシェアは著しく奪われた。CDは売れなくなり映画の興行収入は減りテレビゲームの存在感は希薄化した。

これを当時の事業者はどう捉えていただろう。今現在の状況を見ていれば明らかだと思うが、ぽっと出の競争相手としてシェアの奪い合いを挑み続けている業界は軒並み失墜していることがわかる。

「シェアを奪っていくけしからん新興の敵」そんな考え方は正確ではなかったのだ。インターネット、ソーシャルメディアは、人々がその時はじめて気づいた全く新しい時間の使い方の選択肢。そんなものの存在が確認されれば当然、時間の使い方は分散する。我々の持ち時間は等しく1日24時間しかないのだ。

コロナショックでも、同じような現象が起きようとしている。

何かが失われる。既成の価値観が壊される。パラダイム“ブレイク”と考えると、これからの事態を正確に推し量ることはできない。あくまでパラダイム“シフト”既成の価値観の移り変わり、新たな選択肢への広がりと捉えるとイメージしやすい。

【フェーズ1】混乱の蓄積

現在はおよそ緩やかとは言えない変化を必要に強いられて敢行している混乱の時期と言える。

ソーシャルディスタンス-人との物理的距離を広く保たなければならない-という全く新しいルールに対応するため、仕事もプライベートも、あらゆる面で遠隔化の経験を積み重ねている

働き方で言えば、まず遠隔勤務に必要な装備とは何か。環境整備をどう進めるか。直接対峙するのと比べ情報量が希薄化してしまうビデオ会議やチャットで行うコミュニケーションによる弊害も顕在化してくる。表情や空気といった、場の温度感を感じられない環境でどう進行していけばよいかというのも大いに頭を悩ませる。

管理職の視点では、勤怠管理が最大の問題になる。労働時間基準で行われてきた日本式の人事考査システムも抜本的に見直す必要が生じる。そもそも中間管理職の職務内容自体を変更する必要があるかもしれない。従業員の勤務態度を監視したり相談に乗ったりと、数字として見えない働きを中心に任されていた管理職は、遠隔勤務になった途端に業務内容が薄くなる。

プライベートでは、長く外出自粛が続くことで娯楽体験のデジタル化が余儀なくされる。フィジカル的、身体的に得られる体験が軒並み制限されるため、それに代替する形で一個人単位でも需要を満たす工夫が必要である。今まで当然に行えていた娯楽を伴う外出ができないストレスに対処しなければならない。

友人や職場の同僚との勤務外のコミュニケーションも著しく希薄になっている。家族がいる者は、その分の時間を家庭に割けるが、独り身で就職と同時に上京してきていて職場以外のコミュニティがあまり無い人々は、孤独感とも対峙しなくてはならない。

しかしこの状況において-ストレスに苛まれ感覚が麻痺している可能性が高い現状において-性急に結論を出すのは危険が高い。特に重要な意思決定を下すのは待った方が賢明といえる。あくまで現在は“混乱の時期”なのだ。

ここで最も肝要なのは、素早く多くの経験を蓄積し多角的な情報を収集し、質の高い混乱を作り上げることである。

【フェーズ2】需要の増大

混乱期を乗り越えると、解決すべき問題点=ニーズが次々に見えてくる。

現在でも一部で囁かれているが、オンライン会議に必要なスペックが現状の水準では全く足りていないことに気がつく人が増えていくだろう。オンラインでのやり取りが一回りして慣れ始めると、今度はその快適さを求めるようになる。これまで注目されてこなかった、PCに付属するカメラやマイクの性能、そもそもビデオチャットツールの精度などの分野で、より質の高いプロダクトやサービスへの需要が高まる可能性がある。

また、このままのペースで遠隔勤務が促進されれば、紙の契約書の廃止などDX(デジタルトランスフォーメーション)的な経営改革がますます進むかもしれない。遠隔での勤務に徐々にでも移り変わっていけば、上述したように抜本的な人事考査制度の見直しも必要になってくる。安直な成果主義、ノルマ制度は企業に害を生む危険性もある(以前詳しく解説した→長時間労働を是正するには、人事考査にメスを)が、少なくとも長時間労働信仰は是正され、真に効率的な働き方やそれを実行できる人材が正当に評価される時代を迎え入れる必要が出てくる。

これらは、我が国で長らく直視を避けられてきた“労働生産性の向上”というソリューションを、劇的に進める好機と捉えることもできるし、実際にそう言った分野のコンサルティング会社は既に多忙になりつつあると聞く。

しかしそれらの改革を進めていく中で、遠隔勤務の弊害が顕在化し始める。

必要に迫られお互いを気遣いながら実施している現在とは異なり、これが長く続けば目的は業務の効率化へと大きく舵が切られる。そうなってくると、従業員の機微を感じ取れないこのスタイルは、心の磨耗を早期にフォローする機会を失う。同僚とコミュニケーションを取る機会も方法も限定されているため、溜め込む人材が続出する。それに伴い、カウンセリングやコーチングの専門家など、そのフォローに特化した人材を雇う、ないしアウトソーシングするといった解決案が浮上する。

プレイベートの過ごし方も、劇的ではないにせよ着実に変容する。

出勤する機会が減れば、自然と家庭で過ごす時間が増える。そうすると、業務後のいわゆるアフターファイブ消費からファミリー消費へ求める産業の比重が推移する。住空間のプライオリティが高まり、その拡充や少し郊外の広い家への住み替え需要が生まれるかもしれない。

【フェーズ1】の混乱の中で創出した、もしくは見つけ出した外出を伴わないデジタル体験ので新たな楽しみが選択肢の1つとして定着する。その需要への供給が拡充していくにつれ、従来の娯楽はそのシェアを分散させられてしまうことになる。

現在でも特に自動車や航空など移動を伴う業界の収益は激減しており、破綻の足音さえ聞こえてきている。外食業や宿泊業も在り方を改めねばならない。

単なる規模縮小も1つの結末かもしれないが、新たに多様な価値を提案することで容易に競争力を高められる時代とも捉えることができる。

【フェーズ3】新世界の創造

この段階の見極めを今行うのはあまりにも早計だ。なので、今現在(【フェーズ1】の段階)で良き混乱を作り上げ、今後どういった未来に向かうのかは各自想像してみてほしいのだが、一応私のごく個人的な希望的観測を述べておく。

まず、恐らく全国的で劇的な遠隔勤務の導入はされないと思っている。

テレワークの実施は既にIBMやYahooなど一部の大企業で試され、失敗した過去がある。必要に迫られていなかったからという見方もできるが、AppleやGoogleといったユニコーン企業が執拗に嫌がった経緯を見るに、管理コストの増加などやはり極端な遠隔化は長期的には悪い効果を生んでしまう。

しかし一方で、段階的かつ限定的な導入は今後ますます活発になるだろうとも思う。確実に遠隔で良い業種もあるし、無理に強いて多くのビジネスパーソンを毎朝満員電車に送り込み、人材の精神的磨耗を良しとするメリットは少ない。そもそも今回の一件で人を密集させるリスクについては充分に痛感している。

そうなるとやはり【フェーズ2】までで述べた需要の変化は永久的なものになりそうだ。

1.職場コミュニティからプライベートコミュニティーへ
2.フィジカル体験的消費からデジタル体験的消費へ

大きくは上記2つの変化を軸とすることになる。

今までのおさらいになってしまうが、消費習慣はもちろん、私生活単位で重要視するもの、優先されるものが変わっていく。何を優先するかは今より一層多様化するだろうし、世の中的にその多様性に寛容になっていく。

一例を挙げるなら、住空間のプライオリティが高まり、住まいの居心地を優先したい人は都心から離れていく。いきなり地方でスローライフする若者が増え出すみたいなことにはならないが、少しずつ都市圏が拡大し人口密度が希釈されていく可能性は高い。例えば、丸の内勤めだが出勤は週1なので住まいは人が少なく地価の安い過疎地、みたいな層は現れる。

そうなってくると問題になるのは、生活に絶対的に必要なインフラの整備、偏在している医師や教育機関である。人の生活分布がバラければ、それだけ広域にインフラ環境を広げていく必要があるが、それがまず実現可能であるか、実現できたとして維持していく継続可能性を考えねばならない。これを実現できる企業が現れれば莫大な利益を手にすることになると思うが、はっきり言って現状は無理難題である。

そこで妥協案として現実感を帯びてきているのが国土交通省が発案している「コンパクトシティ構想」だ。

この構想の意図を多少曲解することになるかもしれないが、都市型はある程度維持しつつ、新幹線の止まる駅などある程度物流インフラの整っている地方都市にも経済的拠点を担ってもらい、日本全国に点在させることができれば、全てではないにしろ直近の(人口減少なども含めた)多くの問題が解決する。

また、物理的に出勤時間が減少すれば、自ずと家庭やプライベートのコミュニティーで過ごす時間が長くなる。今までメインだった職場というコミュニティーが希薄になると、大なり小なり居場所を失う人が出てくる。通勤の時間はもちろん同僚と飲みに行く時間も減り、その分の穴を埋めなければならない。

家庭があったとして、その全ては容易に埋められるものではない。そもそも職場恋愛を発展させる機会が減少すれば、その家庭を持つ機会すら危ぶまれる。そこでおそらく注目されるのが、サークル活動のような趣味で繋がるコミュニティーやボランティア団体への参加だろう。

これを従来のフィジカル的な関わりからどうやってデジタル的な関わり中心にデザインしていくのかは課題だが、新たな人との関わりの場への需要は増える。SNS婚やネトゲ婚のようなケースも今よりずっと一般的になるのではないかと思う。

合言葉は「スクラップ&ビルド」

「新型コロナウイルス」

こいつの出現は間違いなく災難だった。

自粛自粛で毎日疲れる。多くのやりたいことを我慢しているし、日々「耐えている」という感覚で暮らしている。マクロ的に見ても経済はぐちゃぐちゃにかき回され、今まで築き上げてきた国家間のグローバルな協力体制もグラグラと揺れている。うんざりだ。

しかしここは、やはり基本に立ち返って“リフレーミング”(リフレーミングについては→自分の可能性を広げる思考法のファーストステップ)、視点を変えてポジティブに見える枠組みを探してみるべきである。ただうんざりしていても環境は変わらない。それならば自分の効力の及ぶ範囲でアクションを起こさなければ、生産的な人生は送れない

先日なぜかどうしても観返したくなって観た「シン・ゴジラ」という映画に、とても現状に適したセリフを見つけた。





「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた。今度もまた立ち直れる。」





竹野内豊演じる総理大臣補佐官である赤坂秀樹が、劇中終盤に語りかけた言葉だ。

今まさにこの言葉を胸に未来を見ていくべきだと思う。既成の価値観、概念、パラダイムは脆くも崩れ始めている。しかしそんなものはさっさとスクラップして、新たな世界に見合ったパラダイムをビルドしていこう。それをするべきは、どこかの誰かではなく「あなた」であり「私」だ。

そのために今できることは、柔軟に未来を予想し対応していく準備である。

再三になるが、素早く多くの経験を蓄積し多角的な情報を収集し質の高い混乱を作り上げることで、来るべき時に優れたアイディアを発想し、最高のパフォーマンスを発揮できるように努めてほしい。変化に対応できない人にとって、格差の広がるこれからの未来は決して優しいものにはならない。

そしてパフォーマンスを発揮するにはスキルが必要だが、スキルを発揮するにはモチベーションが重要になる。そしてモチベーションの維持には身体的な健康がなくてはならない。

つまり、食事・睡眠・運動と基本的な健康管理をしながら、質のいい情報を身近に置いて視座を養い、自分なりのプランを考え適度にアウトプットするのが良い。

来るべき未来に向けての第一歩を、まさに今日から、一緒に踏み出して欲しい。

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