最近、同業の中堅以上のキャリアを持つ人と話していると、「デザイナーという肩書きを名乗りたくない」という人がチラホラ現れてきている。
この感情の源泉を有り体に言えば、「デザイナーと名乗ると軽く見られる」という事になると思う。
デザイナーと一口に言っても、その職業名に定義される業務の幅は実に幅広い。
建築や洋服、家具などのプロダクトを制作する、言わば職人的な仕事をする人をデザイナーと呼ぶ一方で、広告戦略や企業ブランディングなどを設計する、業界的にはアートディレクターやクリエイティブディレクターと呼ばれる人種もまたデザイナーだ。
さらに、職人的なモノヅクリをしつつもアートディレクターの様な働きをするデザイナーもいるし、広告やブランディングに関わる業務を行っている会社に所属しているが、あくまでオペレーターとして制作物のデザインを担当している人もまた、デザイナーと呼ぶ。
デザインは思っているよりずっと生活に密着している。今こうやって記事を書いているプラットフォームもデザインされたものだし、今右手に持っているコーヒーの入ったマグカップもデザインである。
街を歩けば、建物は全てデザインされている。駅に貼られたポスターは想像しやすいだろうが、電車に乗るために購入している切符をデザインした人もいる。今あなたが手に持っているかもしれないコンビニのサンドイッチの包装も、毎日何時間も眺めているスマートフォンも、もちろんその中のアプリケーションも、玄関口にある鉢植えでさえデザインが介在している。
今世の中に存在しているもの、あなたが日頃目にしているモノの中で、デザインされていないモノを見つける方が難しい。
恐らく、デザインという職務に従事していない人では気付かずに見過ごしてしまう程に、私たちはデザインに囲まれて生きている。そのくらいデザイナーの業務は高度に複雑化し、また多岐化している。
それに比べて一般認識におけるデザイナーとは、その中のごくごく一部、自己表現的というか比較的アーティスティックで、わかりやすくモノを作っている人というイメージが浸透してしまっていると感じる。
そうして十把一絡げに「デザイナー」と定義されてしまっているが故に、もっと経営に直結した分野でデザインを思考や思想として駆使しているような人からしたら、その一般的なデザイナーという定義にはめられたくないと感じるのだろう。
私自身、デザイナーと名乗って「どんな服作ってるの?」と聞かれ辟易した経験が何度もある。私はデザイナーとしてそれなりにキャリアはあるが、もちろん仕事で服を作ったことは一度もない。
デザイナーは「絵が描ける」人だちだった
一昔前まで、デザイナーになるための必要最低条件は「絵が描ける」ことだった。
そのためどんなジャンルであれ、デザイナーを志す人はほぼ例外なく、美術系の予備校ないし画塾に通って、美術大学や美術系の専門学校への入学を目指した。もちろん私も、高2の秋頃から画塾へ通い始め、画材の扱いを学んでいる。
当時は、(現在もそこまで大きくは変容していないが)デザイナーとはそういった専門教育を受けた人がなるものだった。そのため表現や美的センスを磨くことが最も肝要であり、そういった能力に長けた人が担う業務という認識が根強いのだと思う。
確かにそういう側面も多分にある。表現や美的センスを磨くのも極めて重要な素養であることは間違いない。私もそれが鈍らないように務めているし、デザイナーとはそうあってほしいとも思う。
しかし一方で、デザイン制作の現場は徐々に「絵が描ける」や、それに類する技能を必要としなくなってきている。
デザイン制作用のアプリケーションは実に高性能で、そこまで高額なものでもなくなった。ウェブ上で公開されている豊富なデザインテンプレートは無料のものも多く、最近ではAIを活用した自動生成技術も目を見張るものがある。
今やデザインは「絵が描ける」特殊な技能を持つ人だけのものではなく、誰にでも制作可能な身近なものになってきている。
昨今では、美術的な専門教育を受けていない人であっても、デザイン業務の一端を担うことが増えてきている事実もある。そういった、特に誰の師事も受けずに制作活動を行うデザイナーの出現は、フリーランスデザイナーの増加という形で顕著に現れている。
故に、意匠を施す、つまり見た目を綺麗に整えたり作ったりする業務のみをデザイナーの仕事として定義すると、その価値はあまり高いものではなくなってきている。
それは、もはやコンピュータープログラムのアシストによって専門知識を必要とせずある程度のクオリティが担保できてしまう、技術的進歩の功労とも言えるだろう。
では、デザイナーの価値は今後そんな技術革新によって徐々に目減りしていってしまうものなのかというと、そうではない。
海外の先進企業や、最近では日本企業の一部でも、デザイナーを経営陣もしくは経営責任者直下に接続する極めて重要な待遇に重用するケースが増えてきている。
デザインの価値を希薄化させている誤解
意欲を持ってデザインアプリケーションのスキルを学べば誰でもできるような、“意匠の制作業務”というのは別段高い価値をうまなくなってきているのは事実だ。
実際単価が安くなっているジャンルもあるが、作業効率が以前と比べ格段に高くなってきてるし、技術的にもコンピューターとアプリケーションの使用方法さえ覚えれば具現化もそこまで難しくないので、妥当だろうと思う面もある。
しかし、それはあくまで意匠-見た目を綺麗に整えたり作ったりする業務-のみにデザイナーをアサインしようとした場合に限った話だ。
私の母校である桑沢デザイン研究所で専任教授を務めるアートディレクターの大久保晃先生は、授業で以下の事を教えてくれた。
「デザイナーの3レクト」
デザインを学問として学び始めた最初の年に受けた教えだが、未だに心に残っている。
当時19歳だった私は当然デザイナーについての認識は狭義のものであった。それこそ冒頭に記した通り「デザイナー?服作ってんの?」とまではいかないが、職人的で美術系の素養を持った人種にのみ開かれた狭い世界だと認識していた。
3レクトとは、コレクト・セレクト・ディレクトという3つのレクトのことだと言う。そしてこれらを操るものこそデザイナーだ、という定義の改めを促してくれたのだと思う。
コレクトは集める。セレクトは選ぶ。ディレクトは方向を示す。今思い返してもデザイナーの業務を極めてシンプルに表現していると思う。
もう少し分解して細かく解説すると、デザイナーの業務というものは、
・オリエンやヒアリングによって行うクライアントの主観の収集
・リサーチや商材/競合/市場分析などから行う客観の収集
・それらの観察によって要素の分解&選出、または新たな概念の発掘
・それらファクターを再構築
こういったフローを踏んで、ようやく最適なアウトプットを目指す、つまりデザイン制作に取り掛かる。
ここで何を最適化したいのかというと、それはコミュニケーションだ。製品やサービスとそのユーザーとのコミュニケーションを最適化させる。うまく意図通りに伝える設計を施す事が最大の使命となる。
しかも多くの場合、そのコミュニケーションは人が介在しない。実際に顔を付き合わせて説明するわけにはいかないので、ビジュアルとして見て理解してもらうか、文章として読んでもらうでも、目を通して納得してもらえるように様々な工夫をしなければならない。
この難解なミッションを達成するために磨いたスキルが、本来のデザイナーという職業の本質である。
それ故に、製品やサービスの特性が高度に複雑化し続ける現代において、その類稀な専門的センスが、多くの企業に必要とされ始めているのだ。
経営資源としてのデザイナー重用
CDO(Chief Design Officer)という役職を目にする機会も段々増えてきた。ビジネスパーソンであれば、既に概念を知っている、もしくは文字面だけは見た事があると言う人がほとんどだろう。
Appleの創業者スティーブ・ジョブズはデザイナーのジョナサン・アイブをCDOとして経営陣に迎え全幅の信頼を寄せ、iPodやiPhoneをはじめとした革新的な製品を世界に数多く送り出した。
ユニクロなどを有するファーストリテイリング創業者の柳井正は、世界的クリエイティブディレクターのジョン・C・ジェイを経営直下に重用し、ユニクロを世界的なブランドへと成長させた。
両者とも、デザインやそれに類する思想や思考を含め、それを極めて重要な経営資源として認識し活用した経営者である。この他にも同じようにデザイナーを重用して成功したケースは、挙げればきりがないほど存在する。
CDOの役割は、製品やサービスとそのユーザーとが関わる全ての接点でコミュニケーションをデザイン、つまり設計するというもの。そしてこの業務-ローンチにデザイン的アプローチを検討するフローを取り入れること-は、これからの時代の会社経営にとって極めて重要なステップとして周知され始めている。
デザインを「意匠を施す業務」と認識すると、デザイナーの価値はこれから益々薄く感じられるようになる。反対に、市場に送り出す全てのモノに「意匠を施す」工程が必要不可欠なのだから、コスト的に足を引っ張る存在として疎ましくさえ思うこともあるだろう。
しかし一変して、CDOといった現代経済の潮流において極めて重要な存在と認識し、真に活用できれば、足枷どころか企業にとっての翼にもなり得る存在である。
もしまだデザイナーを単なる意匠屋として認識し、最低限足を引っ張られないように格闘しているのならば、それは間違いなく勿体無い時間を費やしていると言わざるを得ない。