日本型義務教育を手放しで否定するのは果たして正解だろうか

日本型義務教育を手放しで否定するのは果たして正解だろうか

“イノベーション”

この言葉が、世界的競争力と極めて密接に語られるようになった昨今。「革新的な発想を企業にもたらす人材をいかに育てるか」といった論点の矛先が、教育の現場へ向けられることが増えてきた。

始まりはアメリカで、北欧の⏤⏤特にフィンランド式と呼ばれる教育が注目されたことに端を発する。そしてご存知に通り、その風潮は日本へも広く波及している。

皆さんも恐らく、テレビやネットなどで一度は見聞きされていると思うが、フィンランドの教育は実に個性的で自由だ。宿題もなければテストもない。多様性が重んじられ、生徒は個性を尊重される。所によっては体勢すら好きして、勉学に励んでいる。教師はみな大学院卒で質が高い。

日本では考えられないほど、独創性に富む方針である。

これらはもちろん、フィンランド式教育の中でも特にセンセーショナルな部分のみが切り取られている。とはいえ、学力世界一を獲得し、経済界でも頭角を表している結果を見るに、この教育方針が優れた成果を生み出していることは、疑いようのない事実だ。

そのため、フィンランド式の教育は世界一と評され、一部では半ば信奉されていると言っていい。



『教えられたことを覚える』に費やす従来型教育

社会にイノベーションをもたらすような革新的な発想を持つ人材は、国の財産であり必要不可欠な存在である。この認識に齟齬はない。

その為、より柔軟な思考を育て自由な発想を鍛える教育の在り方を教育現場に求める声に、あまり違和感は抱かない。その点において、個性的で自由な方針を組み立てるフィンランド式教育に憧れ、模倣したくなる気持ちは痛いほどわかる。

しかしそのあまり、自国の教育に対して批判的な意見ばかりが育ち、良い部分や活かせる点、国民性に即したやり方まで見えなくしてしまうと、これはやや行き過ぎと感じることがある。

例えば日本を例にとってみる。

我が国の義務教育の基本方針は“知識の記憶”にある。評価もまた、その度合いをみるためのテストを介して行われる。日本には飛び級がないので、ほぼ全て(※高校進学率97%強)の日本人は、大学入試までの12年間を『教えられたことを覚える』ために費やす。

日本の教育はとにかく反復が基にある。繰り返し繰り返し教科書を読み解くことで、記憶に定着させていくよう指導される。

この方針が果たして、現代の教育課題である『革新的な発想を持つ人材育成』の達成に即しているか否かという議論が度々上がる。それこそフィンランド式教育を例にとって。

確かに、これでは理想の最高値を達成しても『皆一律均等な知識を身につけた人材の育成』で終わる。昔はそれでもよかったのかもしれないが、現代社会で求められる人材とは少々趣が異なる。

私個人の意見からしても、流石にこれだけに12年⏤⏤中学までの9年間だとしてもちょっと長すぎだと感じる。

それに、一部の教員の中には『一律均等』をフィーチャーするあまり、授業で学習した範囲外の知識を用いる事を禁止する者までいる。私も学生時分、何度もそれで減点を喰らった経験があるが、正直「クソくらえ」と思ったし今でも思っている。

このような教育方針は古く、現実に即していない。上記のように半ば形骸化して、子供の可能性の芽を潰している面も多分にある。

ただ、その部分の憤りに目を向けるあまり、もっと個性を尊重せよと、学びは自由であるべきだと、手放しで批判と変革意識を高める危険性も、認識しておかなければならない。

反復訓練が日本人の優れた集中力を担保しているかもしれない

かくいう私自身、少し前までは北欧的な⏤⏤多様性を尊ぶ自由教育の信奉者だった。

人間の最も優れた知性は“創造性”にあり、その知性を育むためには、頭を柔らかくして、あらゆる可能性を察知できるように、なるべく制限となる思考は植え付けるべきではないと、そんな風に考えていたし、日本の義務教育に対する憤りも手伝って、大きな変革を望むレジスタンスの一味だったと言って相違ない。

もちろん今でもその全てを翻して反省の言を述べる意思はない。

むしろ、クリエイティビティ-人間の創造的知性-について勉強・研究していく中で、今後の教育の在るべき姿に具体的なビジョンを描きつつあるし、それは制限のない独創性を育む方向にあると断言できる。

しかし、自らが施された従来型の日本教育によって育まれた能力というのもまたあるのだと、クリエイティビティを勉強・研究していく中で、今では深く思い知っている。

アメリカの心理学者で、創造性や幸福について研究を行うチクセントミハイと言う人物がいる。

詳しく書くと長くなるので意訳になるが、チクセントミハイは義務教育における反復学習のような訓練が人の幸福に寄与しているという旨の主張を発表している。

彼は、幸福ではない状態⏤⏤つまり不安だったり気持ちが後ろ向きになるのは、“心理的エントロピー(無秩序)”が原因だと言う。この状態は、しなくていい心配や取り留めのないネガティブ思考が頭をもたげ、頭の中を散漫にする。そして幸福とは、この心理的無秩序の状態”から“統制された状態”にしなければ成されない。

ではその“統制された状態”とは一体どんな状態だろう。
簡単に言うと、それは“熱中”である。

無秩序を引き起こす雑念が入る余地がないほどの集中。意識を一点に向け投射する。みなさんも恐らくご経験がおありだろう。何かに熱中している時、他のことにはほとんど意識が向かない。いつもは頭をもたげる漠然とした不安なんてものも、介在する余地すらないと思う。

チクセントミハイは、心理学的な観点からその状態を“幸福”とした。

もちろん、その結論自体には疑念が残ると思う。もっと快楽的な何某かを幸福に期待する気持ちもわかる。しかしこの時「不安や後ろ向きな気持ちなど消え去っている」ことは疑いようの無い事実だ。

そして、その熱中⏤⏤意識を一点に向け投射する状態を覚える訓練として、決められたことを反復して行う学習方法が極めて有効に作用している。

この言論について今回重要なのは幸福どうこうではない

私が言いたいのはつまり、古くからモノヅクリ大国といったアイデンティティを持つ日本人の凄まじいまでの集中力は、反復訓練を幹に据えた義務教育課程で育まれたものかもしれないということだ。

義務教育が機能している意外な側面

日本の教育は、しばしば「受動的すぎる」ことが問題点として挙げられる。

確かに、言われたことを言われたままに行った度合いで成績が評価され、例え向上的であっても足並みを乱せば非難される現状はよろしくない。
「日本の教育現場は、逆らわず従う人格づくりをしている」と揶揄したくもなる。フィンランドをはじめ、スウェーデンやデンマークで取り組まれている能動的な学びを評価する仕組みを取り入れてくれ、と切に思う。
それに加え、手段が目的化され形骸化した一部の教育者の思考や、それを生み出してしまっている現場の環境も、看過できない。

しかし一方で、こうも考えてみて欲しい。

抑圧がなければ、そこから抜け出したいというエネルギーも芽生えることはない。エネルギーというのは、“自分にとって重要なこと”と“その変化”の関数だ。

その抑圧は確かに絶対的に学校である必要はない。家庭や社会にだって多くの抑圧が存在するし、そこから自由に選びとれば良い。親が子に、その適切な抑圧を課す責を負えるのであれば、学校にだって通わせなくてもいいと思う。

けれど、それを目の端からこぼして、放棄して、多様性だの個性だの我が子の発展だのを教育現場の改革という手段のみで要求するのは些か論点がずれている。学校というのは、子が最初に抑圧を感じる小さな社会なのだ。

自由に学べばいい。個性を伸ばせばいい。みんなと違くていい。
全くその通り。完全に同意する。ぐうの音も出ない。

しかし手放しの自由は一方で無責任にも繋がる。自我の育ちきらない子供に「なんでも好きなものを選びとれ」というのは少々残酷ではないか。そういうのはある程度基本的な情報がインプットされなければ選択のしようがない。

枠組みを知ることで、その枠組みへの憤りをエネルギーにでき、その枠組みからはみ出すためのイノベーティブな発想が生み出される。

つまり、現在議論されている『革新的な発想を持つ人材育成』という目的に照らして考えれば、今の日本教育も決して間違いだらけでないということになる。

いやむしろ、多様性とか自由とかいった風潮に守られて、抑圧から遠ざけられているためにエネルギーが不足した人材が増えているのか?という世論とは真逆の発想にもなりかねない。

実際に、上述したような従来型の反復訓練を緩和した『ゆとり教育』によって、子供の集中力が損なわれた失敗も、我々日本社会は経験している。

社会として教育にどう向き合っていくか

今回度々名を出した『フィンランド式教育方針』だが、実は、日本で言うところのいわゆる教育委員会的な組織だけが起こした施策ではないという。

日本で目にするニュースでは、切り取られたセンセーショナルな一部に隠されてあまり語られることがないのだが、これは“教育”を資産として捉え、社会や家庭、国が一丸となって育む方針に基づいて執り行われている。そしてそれらは、人口600万にも満たない小国だからこそできるのだと、フィンランドの教育に携わる識者も言っている。

だから、その表面的な方法論のみを取り入れても、また違う手段の目的化が起こるだけで本来の課題解決には至らない。

もちろん『フィンランド式教育方針』に学べるところは多分にあるし、見習うべきという姿勢は崩さない。しかし、家庭や社会がどのように教育現場と関わっていくのかという点を踏まえて推し進めていく課題だと、私は認識している。

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