聖書や古典は、読み手や語られる時代によってその解釈が変わるところが面白い。
古書は現代人には中々取っ付きにくく、たとえ現代語訳版であったとしても表現が固かったりしますが、長い歴史を跨いで過去に取り残されることなく現代まで語り継がれているのには必ず理由があります。それは、時代が変われど変わらない、普遍的な正しい人の在り方のような教訓を得ることができるという点。
今回は禅の言葉から、“生きるを豊かにする言葉”を8つ紹介していきます。
順番に全部見ていただく必要はありません。目次から字面的に良さそうな言葉だなと感じたものだけでも見てみてください。
夏炉冬扇(かろとうせん)
夏の囲炉裏、冬の扇子のように、その時節には合わない無用の物。一見いらないものと思われるものが、必ずどこかで役に立っている。今は不要でもいつか必ず必要になる時が来る。という意味。
人に必要とされたいと願うのは人の根源的な欲求ですが、いつも必要とされることは難しい。むしろ、必要とされないと思うことの方が多いかもしれない。
それでもその状態がずっと続くことは絶対にありません。いつかは自分にも出番がある、そう信じて忍耐強く待つことが大事なのです。
余談ですが、働きアリの法則というのがあります。これは、仕事をよくするアリは全体のたった2割で残りの8割は仕事をまったくしないアリ、仕事をサボるアリに分かれるというもの。面白いのは、仕事をよくするアリだけを集めるとまた同じ割合に分かれるのです。不思議ですよね。しかし、これがひとたび外敵に襲われた時はどうなるでしょう。仕事をしないアリはここぞとばかりに戦うのです。
一志不退(いっしふたい)
志を立てたら引かないこと。志を立て、ただひたすらに求めれば、必ず道は開かれる。という意味。
人間の限られた一生をどのように過ごすか、人生において何を成し遂げるか、これらは自分自身で考え、決めることです。たとえどのような志であっても、自分自身が決めた志であれば、どんなものでも構いません。
大切なのはそれに向けて一生懸命に努力をすること。その努力が未来への希望になります。希望というのは他者から与えられるものではなく、また、初めからどこかにあるものでもない。自らの心が育んでいくもの、自分自身で見つけ出すことなのです。
喜色動乾坤(きしょくけんこんをうごかす)
喜びに満ちた笑顔は天地を動かすほどの力があるという意味。いつも穏やかで嬉しそうな顔をしている人のところにはたくさんの人が集まってくる。また、多くの人に囲まれることで、温かい交流や優しさが自然と芽生えてくる。
人は明日が明るいものだと信じられるからこそ生きていけます。たとえ、今が良くても明るい未来を見出せなければ常に不安感に苛まれることになります。明日への希望は人と人との関係から生まれてくるもの。
イライラしていたり、暗い表情をしていたのでは誰も近づいてくれなくなります。そして、孤立することでマイナス思考に陥り、明日への明るさを失ってしまうのです。
脚下照顧(きゃっかしょうこ)
自分の足元をよくよく見なさいという意味。
自分の立ち位置を確認し、今できることに全力を注ぐことで結果は後から自然についてくる。夢や理想がいきなり現実になることは滅多にない。
大人になるにつれて、現実という壁にぶつかって打ちひしがれることもありますが、思いどおりにならない現実や未来に対して、理屈をこねていても仕方がありません。また、歩き始めなければ夢にたどり着くことは決してない。
それよりも、まずは今できること。今するべきことに必死に取り組むこと。自分の足元に目を向けながら一歩一歩着実に歩を進めることが大事なのです。
山中無還日(さんちゅうれきじつなし)
山の中に閑居していると、のんびりして年月の過ぎるのも忘れるという意味。禅の解釈では、山中は本来の自己を指しています。
常に自らが主体となって、時間を使いこなす。時間に縛られるのではなく、自分で時間を使い切ることの大切さを説いています。
社会に出ると就業時間や打合せなど、守るべき時間がありますが、決められた時間があるのは当たり前のことで、それらを守ることは社会のルールです。しかし、毎日一日中縛られているわけではなく、会社が終わったら、仕事中であっても自分が自由に使える時間は必ずどこかにあります。
「忙しい」を理由にやらないのは、自分の時間をうまく使いこなせていない証拠。ルールを守りながらも自らが主体となって時間を使うことが大事なのです。
小水常流如穿石(しょうすいつねにながれていしをうがつがごとし)
たとえ僅かな水の流れでも、絶え間なく流れ続けていれば、いつしか固い石をも貫く、絶え間ない努力は必ず実るの意味。
思っているように進まない、一生懸命やっているのに成果が出ない。このような経験が誰しもにあります。途中であきらめてしまう人も多くいますが、努力を続けている限り、必ず人は前に進んでいます。それには、自分自身の変化に目を向け、成長を信じること。
修行僧が食事や日中の生活をルーティン化しているのは、日々の自分自身の変化に気付くためだと言われます。規則正しい生活はそれだけ心身の細かい変化に敏感になるからです。
余談ですが、食事管理を中心とした筋トレやボディメイクがまさにこれです。脂肪燃焼や筋肉肥大は水滴と同じで、どれほど頑張っても1日数グラム単位でしか変わっていきません。毎日の積み重ねが石を穿つがごとく、体を変えていくことを身をもって体験しました。
人間処有青山(じんかんいたるところせいざんあり)
人はどこにだって骨を埋める地があるもの。故郷ばかりが死に場所ではないのだから、志を持って郷里を出、おおいに活躍すべきである、という意味。大切なことは、どのような場所であろうと自らが主体となって生きること。
会社の役職、地位など今自分がいる場所に執着し過ぎない。こだわりが強すぎるが故にもしものことがあれば、心の行き場を失ってしまう。居場所は今いるところだけではなく、どんな場所であっても主体的な自分さえいれば、そこが素晴らしい居場所となる。
心外無別法(しんげむべっぽう)
三界のすべての現象は心によってのみ存在し、また、心のつくり出したものであるという意味。幸せや不幸せは、そのものがカタチとして現れるものではなく、それを認識する人の心が作り出した現象で、心の持ちようでいかようにも解釈できるということ。
お金をたくさん持っていていても不幸せだと感じる人、はたから見ればなんの不自由ないのにそれでも自分は不幸だという人、お金に困っていても幸せを感じる人、世の中見渡してみればたくさんの人がいます。
良いこと悪いことは幸せ不幸せには直結しない。
アドラー心理学でも、人は自分の目的を達成するために出来事に意味を与える。と言っていますが、幸せでありたいと考えている人は良いことを良いこととして受け取り、悪いことも成長や気付き、次への糧として受け取る。
一方、不幸だと嘆く人は不幸になるという目的を達成するために良いこと悪いことをそのように解釈しているということがあります。
さいごに
自身の経験や出来事から自然と感じたこと、行動基準や価値観といった今自分が大事にしていることが古典などに書かれているとつい嬉しくなります。
「そうそう、これ自分も大切だと思ってたんだよな…」
仏教や禅で見かける言葉の表現は声に出して音で聞いても心地良く、洗練されています。余計なものを極限までそぎ落とした言葉は、さながら絞りに絞った最後にポタッと落ちてくる水滴のよう。まさにクリエイティビティに溢れています。
これ以外にも多くの禅語がありますので、好みのものを探してみてはいかがでしょうか。