人は一体なににお金を払っている?ビジネスにシナリオ設計が必要なワケ

人は一体なににお金を払っている?ビジネスにシナリオ設計が必要なワケ

私たちは、モノやサービスを購入する際、一体なににお金を払っているだろう。

変な質問を投げかけていることはわかっている。何にお金を払っているのかと問われれば、その機能や品質に対してだと答える他ないだろう。

購買対象に対して、その費用をかけるに値するか、買いかどうかを合理的に判断し、その価値があると思えればお金を払う。というのが、当たり前の流れである。たまの例外はあるにせよ、少なくとも基本的には、この流れに準じている。

しかしここで問いたいのは、その当たり前の認識は果たして真実なのか?という観点になる。



人は“物語”にお金を払っている

一旦、上述した“たまの例外”とやらを思い浮かべてみて欲しい。

例えば旅行などで遠隔地に赴いた際、友人知人に配ろうと、ついつい土産物を多めに買ってしまったり果たしてどんな場面で使うのかという物を買ってしまったり、誰しも一度は経験しているのではないだろうか。

私自身、美味しいと思った地産品を大量購入して結局賞味期限内に食べきれなかったり、公園でライブペインティングしているような絵を買って飾りもせずに押入れの肥やしにしてしまったり、修学旅行でどこにでもあるような使用用途のないキーホルダーを買ったり、そんな経験がままある。

このような時、人はあまり“合理的な判断”を購買動機に持ち込まない。それよりもっと、その場のノリだとか感情だとかに強く影響されて意思決定している。

文体上やや畏まった言い回しになってしまったが、合理性や計算といった理性的判断の他に-衝動買いという言葉に代表されるような-感情や直感といった曖昧な基準も購買動機になっているという事実に疑う余地はないと思う。

ではこの時、私たちは「一体なににお金を払っている」のだろうか。

機能や品質はもちろん最低限加味しているにせよ、それらのみを動機とするには少々非合理的なお金の使い方をしている。利用しきれない分量、そもそも用途不明なものに費用をかけたのでは、費用対効果もへったくれもない。

しかし、そんな非合理的な動機でお金を使ったとして、著しく満足度を損なうということもない。むしろ支払っている瞬間は合理的な購買と比して勝る幸福を感じているとさえ言える。すなわち、そこには機能や品質を超えて見出される価値があるのだ。

結論から申し上げると、「人は“物語”にお金を払っている。」と言える。

旅先での衝動買いが最もイメージしやすいが、その時私たちは、購入に至るまでの文脈や経緯を通して価値を総合判断している。つまり物語に出現する一つのアイテムとして購入することで、実利的なメリットをあまり注意深く見ずとも、満足を得ているのだ。

人は合理的判断も“感情”で行なっている

話を受け入れてもらい易いように“たまの例外”として、感情的にお金を使う場面を、あたかもレアケースのように紹介したが、実は全く特例なことではない。

確かに“物語に出現する一つのアイテムとして”商品を見なす傾向は、旅先で芽生えたハイテンションが所以の一つであることは否定しない。

だがだからといって、日常を離れた場面“以外”では、購買動機に感情を動員しないという結論は早計に過ぎる。

何も決められなくなったIQ99の患者

アメリカの医師アントニオ・ダマシオはある日、事故にあった患者の脳の一部を切除する手術を行った。

慎重な治療の末、手術は成功。IQも99(ほぼ平均値)をキープした。しかし患者は術後、整理整頓をはじめ何色のペンを使えば良いかなど、合理的な決定が一切できなくなってしまった

これをおかしいと思ったアントニオは、患者の脳をもう一度深く観察してみると、感情を体験する部位に損傷を負っていたことがわかった。

この症例からダマシオ医師は、人は合理的な判断も感情で行っているのだと結論づけている。

事前情報が付加価値になる

カルフォルニア工科大学で行われた、とある実験がある。

その内容はワインの試飲実験で、被験者20人に5種のワインを試飲してもらうという内容のものだったが、実はワインは3種しか用意されておらず、3種中2種は値段を偽って、別のワインとして2度ずつサーブされた。

1度目は5ドル、2度目は45ドルと言われて出された。

これは当然、ワインの違いがわからない被験者を嘲笑うような趣旨で行われたわけではない。被験者の試飲中の様子を脳内スキャンで観察しながら、どんな反応が起こるのかを確かめる目的で行われた。

結果、値段が安いと思って飲んだワインよりも高いと思って飲んだワインの方が満足度が高いということがわかった。

つまり、人は事前に渡された情報や文脈を基とした「期待」といった感情的な要因も、価値として加算し満足を得ている。

サービス設計は“感情”を動かす“物語”のシナリオであるべき

“物語”と聞くと、それは娯楽などといった“人生のエッセンス”のように扱われることが多い。

しかし実際、人類学では「物語は人類の進化に直結する極めて重要なこと」とされているし、「人の脳は物語に反応するように強く配線されている」とは脳科学の知見だ。

以前、クリエイティビティと制約の関係【上】「クリエイティビティは特権的で非凡な才能ではない」というコラムの冒頭で少し書いたが、物語を創作したり他人が共感したりできる能力は、我々人類を人類たらしめている最も重要な知性と言える。

モノゴトを物語化できる、物語として認識できる能力は、言い換えれば未来を見通す力である。

私たちはほとんどの意思決定を、ある出来事がその後どう影響するのか、それを経験と想像力で文脈に置き換えて、先を予測しながら行っている。これは人類が極めて高い学習能力を有していることの証明であり、人類の進化の歴史上明らかな事実だ。

だからこそ、私たちは何かを購入する際、機能や品質ではなく“物語”にお金を払っていると言える。

どんなに機能が高くても品質が優れていても、共感できる感情移入できる、そういった感情が突き動かされる物語が感じられなければ、最終の意思決定にはなかなか踏み切れない。

その傾向は今まさに進行形で拡大している。

一昔前であれば、大人になってお金を稼いで車を買う、家を買う、高級店に行く、欲しいものを所有するといったわかりやすいステレオタイプの成長物語を全国民が共有していた。だが、それはもう現代にはないのだ。

個性が尊重され、働き方も生き方も高度に多様化していく世の中で、人々は各々の物語を自分なりに解釈してそれぞれに紡いで行くようになっている。ある意味強制されている側面もあると感じるほどに。

そんな現代人の消費傾向の中、商品の物語をいかに顧客の物語と紐づけられるか顧客といかに物語を共創していけるかが、サービス設計上、極めて重要になってきている。

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