クリエイティビティと制約の関係【下】「自由な発想は制約がなければ発揮されない」

クリエイティビティと制約の関係【下】「自由な発想は制約がなければ発揮されない」

現代の人々にとっての“制約”という言葉は、過剰に悪い印象で捉えられているきらいを感じる。

グローバルジェンダーレスなどといった言葉に代表されるように、国家や性別といった枠組みすら忌避され、とてもセンシティブに扱われている様がまさにそれだ。

もちろんそれら自体を否定するつもりは毛頭ない。ミクロ的には大変もっともな思想だと思うし、自分自身もかくあるべしと感じるところもある。

しかし一歩引いて、マクロで全体を眺めてみると、そういった個性や個人の自由が過剰に重宝がられ、枠組みや条件、規則といった“制約”が少々蔑ろにみなされ過ぎている。

実業家で生命論・人間論研究者でもある執行草舟は、自身の著書の中で以下のように語っている。

「日本人は、制約が人をいかに生かし、文化と文明の発展に必要かを忘れている。自由や個性の名の下に、制約は隅に追いやられてしまった。(中略)しかし、価値のある生き方は制約の産物として生まれているのだ。」



“制約”に対する恐れの源泉

「私たちは人間である。」

このことを受け入れない人は、まず居ない。
人間である以上、人間として考え、人間として行動するし、しなければならない。当然のことだが、これも一種の“制約”だ。

これだけの大枠で捉えれば誰でも理解できるのに、これを少々細分化していくと、途端に嫌な顔をする人が増えてくる。

「日本人なんだから」「男なんだから」「女なんだから」。今こんなことを言おうものなら、途端に時代錯誤者の烙印を押されかねない。ことによっては袋叩きに合う。現代の世の中はどうやら、国家に縛られない、性別に縛られないことが正義らしい。

誤解を恐れずに言えば、これは中途半端な教育の所以に他ならない。

世界の大半で行われている教育の内容は、ファクトとエビデンスの暗記であり、知識の詰め込みと論理的な思考養成のみに偏重している。そのため、人を人たらしめている最も重要な知性で、優先して育まれるべき“クリエイティビティ”なおざりにされている。“おざなり”ではない。“なおざり”だ。

学生時分の記憶を思い起こしてみて欲しい。規則とは、枠組みとは、制約とはどんなものであっただろうか。自由を締め付ける、権利を脅かすものではなかっただろうか。個性の対極にある、人権を傷付ける存在とすら感じてはいなかっただろうか。

しかしそれはハッキリと誤解だ。教育が招いた曲解なのだ。

実際にはその制約こそが、人類が何万年と培ってきたクリエイティビティの結晶であり、その世界観を共有できる知性こそが、私たちを人間たらしめているのだ。私は学校教育で、規則を頭ごなしに押し付けるのではなく、その世界観を正確に共有するための能力を育んで欲しかったと心底思う。

“制約”とは、自由への脅威でも個性の対極でもない。

あなたが日本人であること、男であること、女であること、それらはあなた“らしさ”を規定する個性、抱くべき矜持とも言える。

そしてそれ故に受ける制約もまた、本来的には「幸せに暮らすために人類が創った被造物」だ。その制約を理解し、受け入れることからクリエイティビティは始まる。

制約の縁に立ち、そこから少し踏み出す

デザインやイラスト、フォトグラフなど、クリエイティブな現場ではしばしば「自由に表現してくれ」と言った趣旨の発注をされることがある。

こういった類の発言は、前回のクリエイティビティと制約の関係【上】でも触れた「“自由な発想”というものが“制約を設けないこと”で発揮されている」という勘違いから生まれている。

そしてこの種の勘違いをしたまま仕事を進めると、制約の無い自由奔放なアートワークが開始される。

そうなると、もはや地獄の始まりである。ルールを知らないスポーツで得点しろと言われているのと同義なのだ。当然、得点はできないし、ゴールネットにボールが入ったとして、反則を取られる。

自由な発想、クリエイティビティは、制約がなければ発揮されない。

なぜならクリエイティビティは、何の脈絡もなく別の次元、別の宇宙から新しい概念を持ち込むような超常的な才能ではなく、これまでの社会的な文脈を適切に理解し、条件や枠組みなどといった“制約”を適切に分析・設定した上で、そこから半歩、指一本分の外側を感じ取る知性なのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、それまでの神秘的に描かれていた神や天使の描写にリアルを持ち込んでイノベーションを起こした。モネやルノワールら印象派画家は、それまでの宗教画一辺倒だった絵画界に日常を描くという発想を投げ込んでムーブメントを起こした。

どちらも社会的な文脈や制約の縁に立ち、そこから半歩、指一本分外側に踏み出す発想を発揮している。

クリエイティビティは、入念な制約の設定から開始される。

そのため実際に当社ズームでは、キックオフのミーティングを数回に渡り行う。ズームではこれを、会議でも打ち合わせでもなく「ダイアログ」と呼んでいる。

ダイアログ、つまり“対話”だが、これは「全てのステークホルダーの視座を共感する。世界観を共有する」という明確な目的を持っていることから、通常の会議や打ち合わせとは異なる役割を持たせる意図で命名されている。

ズームのダイアログは、場合によっては一ヶ月間をこれのみに費やすこともあるのだが、それだけこの工程はクリエイティビティにとって欠かせない。

クリエイティビティと制約の関係

クリエイティビティとは本来的に、人を幸せにする知性だ。

それ故に、イノベーティブでありながらフレンドリーでなくてはならない。

そのためにクリエイティビティは、まず全てのステークホルダー(クライアント、カスタマー、ソーシャルなど)の視座を、世界観を共有することからはじまる。

そしてそこから、条件や枠組み、ルールといった制約を入念に作り込むのだ。

世界一のデザインコンサルティングファームIDEOも、この工程をデザイン思考、クリエイティブ思考の最重要フレームと位置付けている。

制約が明らかになってくると、自然と何をすべきかも明らかになる。もしくは、その枠組みから半歩、指一本分外側に踏み出せる部分が見えてくる。

クリエイティビティは、常に制約の上に成り立っている。

優れた創造性を発揮するために、どうか制約に寄り添って欲しい。

ナレッジ・ノウハウカテゴリの最新記事